じじぃの「開戦・リーダーたちの迷走!日本人はなぜ戦争へと向かったのか」

Attack on Pearl Harbor 真珠湾攻撃 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=D3QHdlmh7D8
三・一五事件 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
三・一五事件は、1928年3月15日に発生した、社会主義者共産主義者への弾圧事件。
1928年2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。
作家、小林多喜二は三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表する(『戦旗』1928年11・12月号、発売禁止)。特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買った。(一説には後年の拷問死事件へとつながったといわれる)

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
第二次世界大戦
日本の中国への進出はアメリカやイギリスの大陸での権益に対し、深刻な損害を与え、また両国内の反日的世論をあおっていった。日本の国内では戦争政策に対するあらゆる批判が禁じされ、弾圧された。まもなく日本はドイツ、イタリアとの三国同盟を結んだ。
フランスに対してはビシー政府に圧力を加え、仏領インドシナに進駐することを認めさせ、重慶の国民党政府を支援するビルマ・ルートを遮断すべく北部に軍隊を派遣し、ついでサイゴンなど南部をも占領した。ワシントン政府は日本に対して、在米資産の凍結や石油輸出禁止などの対抗処置をとり、イギリス、オランダ、中国と共同して経済封鎖策で対決した。日本は経済的に窮地に追い込まれ、ことに石油のほとんどを輸入に頼っていたため、息の根を止められたも同然であった。日米交渉が難航し行き詰まっていた矢先、日本はアメリカに対して奇襲攻撃を敢行した。1941年12月、にほんの陸海軍は西太平洋、東南アジアで一斉に軍事行動を起こし、ハワイの真珠湾基地を爆撃し、香港、シンガポールにも攻撃を加え、マライ半島に上陸した。こうして6ヵ月の間に日本軍は、インド=ビルマ国境からニューギニア高地に及ぶ地域を占領してしまった。
戦局は、1942年6月のミッドウェー沖海戦での日本海軍の敗北で一転した。

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NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走 2011年3月6日
【キャスター】松平定知
なぜ日本は無謀な戦争への道を選択したのか。太平洋戦争70年の年に問いかける大型シリーズ。最終回は、いよいよ開戦を決定した1941年をとりあげる。
今回見つかった当事者たちの戦後の証言テープからは、驚くべきリーダーたちの実態が明らかになった。日本の国策決定の場は、全ての組織の代表者が対等な権限を持つ集団指導体制で、全会一致が建前。常に、曖昧で、玉虫色の決定が繰り返された。各組織のリーダーたちは、戦争に勝ち目がないことを知りつつも、戦争できないと言うことが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。海軍、企画院、陸軍、首相、それぞれが互いに責任を押しつけ合い、重大案件は先送りとなっていく。しかし、日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見通しがみえない中、首脳部は、国力判断、すなわち国家の生産力・戦争遂行能力のデータを総動員して、譲歩か、戦争かの合議を行う。結論は、各組織の自壊を招く「戦争回避」より、3年間の時間を稼ぐことのできる「開戦」の方に運命を賭ける。
日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110306.html
どうでもいい、じじぃの日記。
3/6、NHKスペシャル 「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走」を観た。
後半部
大体、こんな内容だった。 (手抜きしている)
日本の指導者のリーダーシップをどう思いますか
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海軍省調査課長の高木惣吉が言う。
「幾度(対米戦の)演習をやってみても、あるいは図上で演習をやってみても勝ち目がないんですね。実際のところ審判(判定)でごまかしているんですけど。本当に率直に言えば勝ち目がないと」
しかし、いざ戦争回避を決断するとなるとリーダーの覚悟は揺れました。アメリカと戦えないことを認め、中国から撤兵するならこれまで失われた20万人の兵士の命、毎年国家予算の7割に達した陸海軍費は何のためだったのか。国民は失望し、国家も軍もメンツを失うことを恐れました。
海軍省兵備課長の湊慶譲が言う。
「日本はもう世界的に威信を失墜すると。将来日本人は中国人につばを吐きかけられる。どこに行ったって、そらもう立つ瀬はないと。これはダメじゃないかと」
結局、リーダーたちは軍の部下や国民を説き伏せるだけの言葉がありませんでした。
企画院総裁の鈴木貞一は言う。
「東条君が言ったのはあれだけの人間を殺してだ。そして金も使いだね。ただ何も手ぶらで帰ってこいということはだな、できないと」
歴史家(日本近代史)のジョン・ダワーが語る。
「人が死ねば死ぬほど兵は退けなくなります。リーダーは決して死者を見捨てることが許されないからです。この『死者への負債』はあらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向け、『我々は間違えた』とは言えないのです」
1941年9月6日、開戦まで93日。
石油がこなくなって1ヵ月、連絡会議はまたしても当面の方針を凌(しの)ごうとします。
交渉の推移を見つつ、1ヵ月後の10月上旬までに開戦か否かの決意を固め、決断はやはり先送りでした。
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じじぃの感想
1923年の関東大震災ごろから、社会主義的な思想を持つ人たちが次々と弾圧されていった。
1923年には大杉栄が「国賊」として殺され、1928年には労働農民党などの関係者約1600人が検挙され、1933年には小林多喜二が殺された。
大杉栄小林多喜二が国家に何をしたというのだろうか。
1928年、日本の関東軍は中国大陸における権益を拡大するため、中国で張作霖爆殺事件を起こした。この時の日本の首相が田中義一である。
田中義一は国内における治安維持法の改悪などの反動政治、大陸における抗日運動などの激発などを招来し、昭和前期にとりかえしのつかないことをした。
昭和天皇は「お前は嘘ばかりついている。お前の顔は2度と見たくない」とまでいったといわれる。
もちろん、太平洋戦争の責任が1人の政治家にのみ原因があるわけではない。太平洋戦争を仕掛けた東条英機にも責任がある。
しかし、田中義一治安維持法を強化し、戦争へ導いていった重大な責任者の1人であることは間違いがない。
言論の自由のない国が戦争などやって勝てるわけがないのである。