じじぃの「人の死にざま_554_上田・秋」

上田秋成 - あのひと検索 SPYSEE
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雨月物語」予告編 動画 YouTube
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Highlights of 1953 hit 'Ugetsu Monogatari' - Part 1 動画 YouTube
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上田秋成 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
上田秋成は、江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者俳人。怪異小説「雨月物語」の作者として特に知られる。
【経歴】
1734年(享保19年)、大坂曾根崎に、松尾ヲサキの私生児として生まれた。
1760年(宝暦10年)27歳、京都生まれの植山たまと結婚した。間に子はできなかった。翌年茂助が没し、嶋屋を継いだ。1764年(明和元年)、大阪で朝鮮通信使一行との筆談に参加した。漢学にも通じていた。
1766年(明和3年)33歳、浮世草子「諸道聴耳世間猿」(しょどうきゝみゝせけんざる)上梓。賀茂真淵一門の国学者、加藤宇万伎に師事した。1767年、「世間妾形気」(せけんてかけかたぎ)上梓。この頃、天満の儒医都賀庭鐘に白話小説を教えられた。1768年、「雨月物語」初稿。
1784年(天明4年)51歳、「漢委奴国王金印考」(考証)、1785年、「歌聖伝」(万葉集研究)稿。賀茂真淵述「古今和歌集打聴」(うちぎぎ)を校訂。1786年、思想・古代音韻・仮名遣いなどで、本居宣長と論争した。しかし、学識に優れる宣長との論争は、劣勢であった。
1787年天明7年)54歳、大坂北郊淡路庄村(現在の阪急電鉄淡路駅付近)に隠退した。「書初機嫌海」(かきぞめきげんかい)(戯作)、「也哉鈔」(やかなしょう)(俳文法書)を上梓。
1809年(文化6年)76歳、羽倉邸に引きとられた。「異本胆大小心録」を脱稿。「俳調義論」を編。6月27日同邸に没し、西福寺に葬られた。贈り名は「三余無腸居士」。1821年(文政4年)の13回忌に建てられた墓石が、今に残っている。別に、香具波志神社に墓碑がある。
ほぼ同時期に江戸で活躍した読本作者には曲亭馬琴山東京伝がいる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
上田秋成 (1734-1809) 75歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「父無シ其ノ故ヲ知ラズ、四歳母マタ捨ツ」(自像箱書) 私生児として生まれ大阪堂島の油屋に拾われて育てられた上田秋成は、その出生よりその純粋狷介(けんかい)の性によって人を罵ってはばからず、孤高清貧の生涯を送った。
凄艶の怪異譚『雨月物語』を書いたのは、彼が数え年35歳のときである。
64歳のとき妻を失い、同じころ眼を患(わずら)って半盲の状態となり、69歳のとき、京の南禅寺山内西福寺の紅梅の下に自分の墓を作った。日本の古来からの習慣では自分の墓を作ることはしない。妻を失い子のない彼はそうするよりほかはなかったのだが、これも奇人の評ある秋成の奇行の1つとして伝えられた。
文化5年数えで75歳のとき、自分の精神生活の総決算ともいうべきエッセー『胆大小心録』を書いた。この本には、彼みずから書いた異本が多い。いったん本として出しながら、その旧稿に手を加えているうちに、別の文章を書き加えてしまったらしい。ボケの一種ともいえるが、内容にボケの現象は見られない。
居室の壁に「禁物、酒、たばこ、肴(さかな)、油」と書き、ふだんの副食物はひしこ味噌とごま塩だけとし、それを健康食とした。
しかし彼は、自分の人生をふりかえってまったく無意味なものであったと考え、このとし「ああ天は何すれぞ我を生みしや」と痛切な嘆声を発している。
その翌年の文化6年、6月27日ひっそりと死んだ。

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上田秋成 Google 検索
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