じじぃの「人の死にざま_541_有島・武郎」

有島武郎 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E/5285/
有島武郎 人と作品
http://fujikawa.gooside.com/ad/book/at/index.html
有島武郎 ウィキペディアWikipedia) より
有島武郎は日本の小説家。
学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。帰国後、志賀直哉武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。
【経歴】
東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれる。横浜に移り、4歳から横浜英和学校(現横浜英和学院)に通う。このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。
内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンイプセンらの西欧文学、ベルクソンニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。 アナーキストの巨星であった大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会った事がなかった。
帰国後はふたたび予備見習士官や東北帝国大学農科大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉武者小路実篤らと出会い同人誌『白樺』に参加。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。1916年に妻と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年には『或る女』を発表した。
1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く(当時有島は妻と死別していた)。しかし秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げた。
師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明した。

                                          • -

「生まれ出づる悩み あらまし」
『生まれ出づる悩み』は、一人の漁師が画家を目指す物語である。モデルは北海道・岩内町に生まれた漁夫画家・木田金次郎。家業の漁の合間に絵筆をとり、やがて絵筆一本の生活になる。生涯、この地を離れず、ただ黙々と故郷の山と海を描き続けた。有島はこの作品で、青年画家を通じて主題につかみかかる芸術的情熱、その苦悩と歓喜を語っている。
http://www.zusi.net/meisaku/umare/umare.htm
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
有島武郎(ありしまたけお) (1878-1923) 45歳で死亡。 (一部抜粋しています)
大正12年6月7日、テロの目標を天皇に置く無政府主義者のギロチン者の1人河合康左右は、資金調達のため麹町下3番町の有島武郎邸を訪れ、ゆすり半分で2000円の小切手を書かせた。有島は淡々としてそれに応じた。彼はすでに死を覚悟していた。
その前日有島は、本郷の帝大病院に入院中の友人、出版社叢文閣の経営者足助素一を訪ねて重大な告白をしていた。
それは彼が、「婦人公論」の婦人記者波多野秋子と恋愛におちいったあとで、彼女に波多野春房という夫のあることを知り、かつその春房から、「それほどお前の気にいった女なら進呈しよう。しかし、代償がいる。しかもただ一度ではない。お前を一生苦しめるために、これからも何度ももらうが、とりあえずいま1万円よこせ」と脅迫されたが、「愛する女背うを金に換算はできない。断る」と拒絶した事件のことであった。当時は「姦通罪」というものが存在した。
波多野秋子は、そのころ作家が原稿を依頼されると、だれでも承諾し、かつ必ず締め切りまでに書くとまでいわれたほど、魅惑的な美貌の持主であった。しかし彼女は肺を病んでいた。
有島は足助にいった。
「秋子は死にたがっている。私も実はその望みがあった。死にたい男と女がめぐり逢って恋愛したのだ。とめてくれるな」
6月8日午前、足助は病院を出て、有島を訪ね、死を思いとどまるように説いたが、有島は聞かず、足助を帰したあと、その午後、風雨はげしい仲を、軽井沢三笠山の有島家の別荘浄月庵にいった。
7月6日、隣の三笠ホテルの従業員によって2人の死体が発見され、現場で、足助にあてた遺書が発見された。
「・・・・山荘の夜は1時を過ぎた。雨はひどく降っている。私達は長い道を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとか、いえばいえる光景だが、実際、私達はたわむれつつあるふたりの小児にひとしい。愛の前に死がかくばかり無力なものだとは、この瞬間まで思わなかった。恐らく私たちの死体は腐爛して発見されるだろう」
その通り、縊死した2人の死体は、赤いしごきで結びあわされ、腐爛して白い蛆(うじ)が這いまわっていた。
東京の有島の書斎では、最後の歌が発見された。
「世の常のわが恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき」

                                          • -

有島武郎 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=5NB2TdLRM4mSuwPg0eHVBQ&ved=0CCwQsAQ&q=%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1