じじぃの「人の死にざま_533_R・ロラン」

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romain rolland 2 動画 YouTube
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ロマン・ロラン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ロマン・ロランは、フランスの、理想主義的ヒューマニズム - 平和主義 - 反ファシズムの作家。戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。
1915年、ノーベル文学賞を受賞した。
【生涯】
フランス中部、ニエーヴル県のクラムシー出身。
1886年(20歳)に2年後れてエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)へ進学し、哲学と歴史を学ぶ傍ら文学・美術・音楽に没頭しピアノをよくした。1887年にはトルストイ戦争と平和』を読んで、トルストイと文通までしている。
1903年(33歳)、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーの個人雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め1912年に脱稿。同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウスツヴァイクリルケ、シンクレアらと知り合う。1910年(44歳)にレジオンドヌール勲章を受章、1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞しスイスの雑誌に芸術時評を書き始める。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞する。
1926年、雑誌『ヨーロッパ』が生誕60年記念号を出した。タゴールネルーがロランの許を訪問。1927年にはアンリ・バルビュスの反ファシズム宣言に賛同者として名を連ね、1932年にアムステルダムの『反戦全世界大会』が挙行されると、バルビュスと共に主導役となっている。
1938年(72歳)にスイスからフランスへ帰国し、故郷に近いヴェズレーを終生の住処とする。ミュンヘン会談における仏英の弱腰に抗議し、1939年にナチス軍がチェコスロバキアへ侵入すると、ダラディエ首相に非難書簡を送っている。
第二次世界大戦が勃発すると、ヴェズレーはナチス占領地域内となり沈黙を強いられるものの、それでも旧友のクローデルが来訪している。1943年から病床に就き、1944年のパリの解放を知り、ソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、年末には原稿の校正を終えると永眠した。故郷クラムシーで葬儀が行われ、近くのブレーヴの墓地に埋葬された。
ジャン・クリストフ あらすじ】
ジャン・クリストフはドイツはライン河のほとりに宮廷音楽家の長男として生を受ける。幼少から音楽の才に恵まれ、怠惰な父の手ほどきを受ける。様々な出会いを経験し、時には極貧にあえぎながら、クリストフは作曲家として大成してゆく。 クリストフはフランスへ出て作曲家として名をなしていくが、音楽界における党派の横行、音楽家と批評家の裏取引といったものにクリストフは厳しい批判を浴びせる。ロラン自身の、党派性や情実に満ちた社会への批判が籠められている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ロマン・ロラン (1866-1944) 78歳で死亡 (一部抜粋しています)
ロマン・ロランは1922年、56歳のときから15年間、スイスに住んでいた。生来呼吸器の弱かった彼にとって、清澄なスイスは健康によく、彼はここで『魅せられたる魂』その他を書いた。
しかし、1938年、72歳になったとき、愛する祖国フランスで余生を送りたいという願望にかられ、フランスのヴェズレーという町に小さな土地を買い、2度目の妻と妹とともに帰って来たが、翌年第二次世界大戦が起こり、40年6月にはヴェズレーも独軍の占領下におかれるに至った。
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人間の自由と反ファシズムを高唱するロマンが、奇蹟的に独軍の逮捕をまぬがれたことについて、あとで多くの議論が交わされたが、その理由はドイツの一将校がロランの愛読者であったことによるといわれる。それはロランの代表作、『ジャン・クリストフ』がドイツ人であるという設定によるものであったかも知れない。
1944年8月、フランスは解放された。その10月、パリのソ連大使館で革命記念の祝宴がひらかれ、ロランも招待されてこれに出席したのが最後の外出になった。
12月30日、彼はヴェズレーの隠栖地で死んだ。

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