じじぃの「人の死にざま_468_E・ドラクロワ」

ウジェーヌ・ドラクロワ - あのひと検索 SPYSEE
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Ferdinand Victor Eugene Delacroix 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GqFP_QP2s-g
民衆を導く自由の女神 画像
http://muse.main.jp/arts/delacr_007.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ ウィキペディアWikipedia)より
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワはフランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
【生涯】
新古典主義の画家ゲランに入門し、1822年『ダンテの小舟』で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選した。1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。1830年七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作している。この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたこともあった。
1832年、フランス政府の外交使節随行する記録画家としてモロッコを訪問した。1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。
【他の画家との関わり】
テオドール・ジェリコーに影響を受けており、彼の夭折を嘆いた。アカデミー・デ・ボザールにドラクロワが入会を許されたとき、ロマン主義の代表格ドラクロワと並び称された新古典主義の主導者たるドミニク・アングルは「私はこの愚かな世紀と決別したい」と述べた。しばしば劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、ルノワールゴッホなど多くの画家たちに影響を与えた。

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『一冊でわかる絵画の楽しみ方ガイド―印象派写実主義から抽象絵画シュルレアリスムまで』 太田治子/著 成美堂 2005年出版
ドラクロワ (一部抜粋しています)
民衆を導く自由の女神
「栄光の3日間」とよばれるフランスの7月革命をモティーフにした作品。ドラクロワは貴族階級に属し、渦中に身を置いていなかったが、祖国のためにこの絵を描くことに決意した。
革命2日目の7月28日、ノートル・ダム教会堂に3色旗が翻(ひるがえ)り、民衆が合唱するラ・マルセイエーズが響きわたった。左手に銃を持ち、右手に3色旗を振りかざし、死傷者の間を踏み分けて先導する半裸の女性は「自由の象徴」。画家は、燃えさかる民衆の情熱を女神に託したのだった。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行
ロマン派の遺産 (一部抜粋しています)
フランスの革命派の理想は、1815年以後盛んになった音楽、美術、文学におけるロマン主義運動と、国民主義にはずみをつけた。これが政治的自由の追求、政治。理想、文化における革命的発酵の最終結果であった。
ロマン主義運動は、18世紀の規則的で優美な様式に対する反動だった。それは感情と想像力に重きを置いた。画家ドラクロワや作家のヴィクトル・ユゴーがこの新しい精神をとらえた。ユゴーは50年以上の間、豊富な表現力を駆使した詩、劇作、歴史小説で、一世を風靡した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ドラクロワ (1798-1863) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
画技においてはレンブラントルーベンスに匹敵するといわれながら、ドラクロワはその絵の好奇的異常性のゆえか、またゴーティエに「妖術で相手を魅惑しようとするときのドラクロほど不思議な力を示す人間はない。彼がもの柔らかに、猫なで声で人にとり入ろうとするさまは、優しさと怖ろしさを非常に巧妙に描き得た彼の虎の絵そっくるである」と評されたような、一見いかにも表裏ありげな人柄のゆえか、7回アカデミーのサロンに出品して三流画家のごとく7回落選した。
彼がこの屈辱をたえて、22年を費し、やっと8回目で当選して会員になることができたのは、59歳になってからであった。
ドラクロワは若いころから病みがちで、しばしば発熱して寝込んだが、描くことだけではたゆまずめげず、生涯に9140点の作品を残した。
彼が自分を悩ませた発熱が結核によるものであることを知ったのは、49歳のときであったが、ジョルジュ・サンドに「子供のない人間は、退屈で死ぬか、働くかです」と手紙に書いたように、病弱と孤独の中に、以後もひたすら憑(つ)かれたように描きつづけた。彼は生涯独身であった。
1863年の冬、流感にかかり、シャンロゼーの別荘にいったが、7月中旬病状が悪化して馬車に寝たままパリに帰り、8月13日午後7時に死んだ。

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ウジェーヌ・ドラクロワ Google 検索
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