じじぃの「人の死にざま_503_松岡・洋右」

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昭和初期の日本(その2) 動画 YouTube
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日本ニュース第17号 日独伊三国同盟 動画 YouTube
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松岡洋右 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
松岡洋右は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死。
【生涯】
1880年明治13年)に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれる。
オレゴン州ポートランドカリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられるが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。
1931年(昭和6年)の満州事変をうけて、1932年(昭和7年)、国際連盟リットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかった。が、「9月18日以前原状復帰は現実にそぐわないという認識・滿洲の自治・日本権益の有効性を認め」ながらも結果として「滿洲を国際管理下に置く事」を提案し、滿洲を滿洲国として認めない内容だったため日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に滿洲国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。
このような中の10月、松岡は同総会に日本首席全権として派遣。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡全権はあくまでも脱退を極力避ける方針で望んだ。
1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。38年3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力して5000人を超えるユダヤ人難民を保護している。
日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月27日成立し、松岡外相はその翌年の1941年(昭和16年)3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。
敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。
辞世の句は次のとおりであった。
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
松岡洋右(まつおかようすけ) (1880-1946) 66歳で死亡 (一部抜粋しています)
松岡の外交は、マージャンで、相手3人(米独ソ)の手を全然見ず、自分の手ばかり見て勝負しているようなものであった。彼はヤクマンを志してヤクマンを打ちこんだ。
昭和21年5月3日、極東国際軍事法廷がひらかれたとき、A級戦犯となった松岡は、丸刈りの坊主頭、詰襟の国民服で出廷したが、顔は青くむくみ、ひたいに1すじみみずのように血管がもりあがり、ひげはのびて、むしろむごたらしい姿であった。彼は竹杖を膝のあいだに立て、頭をあげる力もないようであった。
松岡は、若いころ病んだ肺結核が、戦中の過労によって再発し、憔悴し、身近から痰壺(たんつぼ)を離せない状態にあったのだ。それでも罪状の認否には、
「I plead....not guilty....on all....and every account」(余は全訴因に対し、無罪を主張する)と、聴きとれないほどの、しぼり出すような声でのべた。
固い椅子の上に長時間坐っていることすら耐え得ないかのごとく、彼は背をのばし、また前にかがみこみ、ときには隣の重光葵に頽(くずお)れるようにもたれかかった。日米開戦前、東条や近衛を前に「英雄頭(こうべ)をめぐらせばすなわち神仙」などと長広舌をふるって煙にまいた面(つら)だましいはさらになかった。
5月10日、松岡はついに米陸軍病院に移され、さらに6月15日、東大病院に移ることを許された。
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24日、縁戚にあたる佐藤栄作と妻寛子が見舞うと、「日本はどうなるのだろうか」と、つぶやいた。
6月27日午前2時40分、彼は遺言も口に出来ない状態で息をひきとった。

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