じじぃの「人の死にざま_494_頼・山陽」

頼山陽 - あのひと検索 SPYSEE
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川中島 吟詠 動画 YouTube
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頼山陽 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。大坂に生まれる。
【創作活動について】
司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
歴史考証の杜撰さや議論の偏りについては、明白であり、史書というよりは歴史物語である。だが幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は、広島在住時の文化元年(1804年)に完成したが、後これを改稿し『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、没後門人の石川和介が、山陽の遺稿を校正して世に出した。伊藤博文近藤勇の愛読書であったことでも知られる。頼山陽的な歴史観、国家観は幕末から維新、戦前の大日本帝国期に大きな影響を及ぼした。
なお山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る〜」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。

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川中島 頼山陽
鞭声粛粛夜河を過る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
頼山陽(らいさんよう) (1780-1832) 52歳で死亡 (一部抜粋しています)
天保3年6月12日、頼山陽は京都の客舎で突如喀血した。以前からの肺結核が進行していたのである。
ついで腸結核も併発し、烈しい咳と下痢を繰返した。その間にも彼は、死力をつくして『日本政紀』を書きあげ、9月23日、息をひきとった。実に彼が筆を離したのは死の数分前であり、死顔には老眼鏡がかかったままであったという。
しかし、若き天衣無縫の遊蕩に明けくれた山陽は、その妻かえに対し、以後の生活をたててゆくための法、3種に分けてある貯金の使用法など、痒(かゆ)いところに手のとどくような遺言状を残し、彼女をして「・・・・19年の間に候えども、あのくらいな人を夫にもち、ありがたく存じ候。・・・・」と感嘆させた。
ところが山陽には、このとき妻よりも大事な愛人江馬細香があったのである。

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