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志賀直哉
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志賀直哉 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
志賀直哉は、日本の小説家。
宮城県石巻市生まれ、東京府育ち。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』。
【経歴】
2歳の時に父直温とともに東京に移るが、祖母留女に育てられる。学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学文学部英文学科入学。明治41年(1908年)ごろ、7年間師事した内村鑑三の下を去り、キリスト教から離れる。国文学科に転じた後に大学を中退した。学習院時代から豊富な資金力にものを言わせ、同じような境遇の友人だちと放蕩の限りを尽くす。
著者唯一の長編小説である『暗夜行路』(1921年 - 1937年)は近代日本文学の代表作の一つに挙げられ、小説家・大岡昇平は近代文学の最高峰であると讃えている。
小林秀雄は、視覚的把握の正確さをよく受けとめ評価している。
志賀直哉の後半生は、昭和24年(1949年)、親交を深めていた谷崎潤一郎と共に文化勲章受章。交友関係では、学習院以来の武者小路実篤、細川護立、柳宗悦らの他、梅原龍三郎、安倍能成、広津和郎、安井曾太郎、谷川徹三ら、限定されつつも一流の文化人と交流があり、その様子は、残された多くの日誌、書簡にみることができる。
晩年は渋谷常盤松に居を移し、昭和46年(1971年)に88歳で肺炎と衰弱のため没した。没後、多くの原稿類は日本近代文学館に寄贈された。岩波書店から『志賀直哉全集』が数次出版されている。
志賀に師事した作家として、瀧井孝作、尾崎一雄、 広津和郎、網野菊、藤枝静男、島村利正、直井潔、阿川弘之、小林多喜二らがいる。
【暗夜行路 あらすじ】
主人公時任謙作(ときとうけんさく)は、放蕩の毎日を送る小説家。あるとき尾道に旅に出た彼は、祖父の妾お栄と結婚したいと望むようになる。そんな折、実は謙作が祖父と母の不義の子であったことを知り苦しむ。ようやく回復し直子という女性と結婚するが直子が従兄と過ちを犯したことで再び苦悩を背負い、鳥取の大山に一人こもる。大自然の中で精神が清められてすべてを許す心境に達し、「暗夜行路」に終止符を打つ。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
志賀直哉(しがなおや) (1883-1971) 88歳で死亡 (一部抜粋しています)
元気なころ志賀直哉は、「不老長寿という。不老で長寿ならいいが、老醜をさらしての長生きはいやだね」といい、よく安楽死のことを口にした。若いころには自殺を否定していたが、晩年には、自殺もやむを得ない場合もある、といっていた。
しかし彼は生きに生きた。死ぬ4年前、84のとき彼はもつれる舌でいった。
「ここがわるい、ここが痛むというのではなしに、衰えて−−このごろしみじみ老苦というものを味あわされているんだ。たとえばこんなものを」とテレビを指して、「見ていても筋なんかサッパリわからない。テレビドラマにしても、この先どうなっていくのか、大体考えればわかることだろう。中学生だってわかる。それがさっぱりわからない。筋を追って考えることができないんだ。老いぼれて、気力が全くなくなって−−そればかりでなく、アタマがおかしい。ヘンなんだよ」(斎藤一『志賀直哉との対話』)
そして彼は昭和46年、88歳を迎えることになった。
阿川弘之『終焉の記』にいう。
「昨年夏、前立腺肥大の手術を受けて以来、元気が無くなり、自宅で寝たり起きたりの暮しをしておられた志賀直哉先生が、軽い肺炎の症状をおこし、嫌っていた入院を承知して世田谷の関東中央病院に入ったのが、去る8月16日であった。容態は思わしくなく、食物が全く咽(のど)を通らず、18日19日あたりは終日ほとんどうとうとと眠ったままで、もはや昏睡に近い状態かと見え、私は覚悟を定める思いになった」
しかし、1週間ほどすると不思議に持ち直し、朝夕半塾卵1つ程度だが物も食べられるようになった。
「そうなるとしかし、先生の方は段々持ち前の我儘が出て来て、床の上へ起せとか、ステッキを突いてベッドから足を下ろすとか言い出す。すぐに疲れて横になってしまわれるけれども、5分としないうちにまた起せという。
康子夫人がさとすような口調で、寝ていらっしゃらなくちゃ駄目よと、やさしくなだめるのに、大きな強い声で、『うるさいっ』と怒鳴ったりした」
弟子の阿川や尾崎一雄らは、それを回復の徴候と考えてよろこんだ。
「だが其の後、病状は一進一退というより、やはり徐々に下り坂に向かって行った。
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21日朝は、もう時間の問題ということになった。11時ごろまた里見がやって来たので、阿川と直哉の子息直吉が案内して病室に入ろうとすると、いれちがいに看護婦が駈け出して来た。阿川は書く。
「見ると、白い髭にかこまれた先生の口は、軽くひらいたまま動かなくなっていた。1つ息をして、またとまった」
医者が駈けつけて、馬乗りになって、あばらが折れそうなほど強く人工呼吸をやりはじめた。直哉は死ぬ4、5日前、直吉に「もう何もしないでくれ、俺は駄目だ。死ぬよ」と舌をもつらせながらいったというのだが。
完全に心臓が停止したのは、午前11時58分であった。
「死んで築地の本願寺で盛大な葬式なんて、考えてもいやだね」と生前いっていたので、青山葬儀所で簡素な無宗教の葬式が営まれた。それでも会葬者は1200人あった。
「私は灰になった後でも、焼場のきたない骨壷に入れられる事は厭わしく、ある時、陶工の浜田庄司君に骨壷を焼いて置いて貰いたいと頼んだところ・・・・」(昭和23年「実母の手紙」)それが出来て来たので、「食堂に置き、砂糖壺に使っている」「私は骨壷の用意はしたが、あと10年80歳まで生きていたいと思う。(中略)あわよくば88まで」(昭和27年「念頭所感」)
その通り志賀直哉は88まで生きた。
「私が死んでも墓は作らず、灰にして、自家に置き、邪魔になった時、海に沈めて貰いたいと家人に云っている」(「実母の手紙」)
とも志賀は書いたが、死後、灰色に、赤、青のまじった色の、真鶴産の本小松石を三段積みにし、高さ1メートル80という大きな墓が青山に作られた。
上記の庄司の作った増子焼の骨壷はその墓に納められたが、昭和55年3月16日、その年の1月に亡くなった康子夫人の骨壷を納めるために墓石をあけたところ、弟子の綱野菊が「お骨がきれいでしたね。あんなにきれいな立派なお骨、初めて」といった直哉の遺骨は骨壷ごと盗み去られて消失していることが判明した。
20日に至り、墓地から300メートルばかり離れた場所に骨だけが捨てられて散乱しているのが発見されたが、それが志賀直哉のものであったかどうか不明である。
いずれにせよ、志賀直哉の最後の芸術的な望みは、最も無惨なかたちで裏目に出たのである。
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志賀直哉 Google 検索
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