じじぃの「人の死にざま_469_田中・義一」

田中義一 - あのひと検索 SPYSEE
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昭和宰相列伝1 田中義一 他(1927-1937) 動画 YouTube
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昭和初期の日本(その1) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eDjHioHYtuo
田中義一 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
田中義一は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。
陸軍大臣貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。
【生涯】
藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。
将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、大正14年(1925年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。
田中の誘いで政友会に入党した人物も今までの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。
鈴木・原によって治安維持法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓してその受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。
昭和3年(1928年)2月に第1回普通選挙が行われ、社会主義的な活動が目だったことから、同年3月に全国の社会主義者共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。
同年に起きた張作霖爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。このことを野党立憲民政党に批判され、また昭和天皇にも「(この事件を犯人不明としてその責任者を単に行政処分で終らせたといふことは、帝国の陸軍の綱紀を維持する所以でないといふことを御軫念になり、田中総理に対し)お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と強く叱責され、「(奥には入って鈴木侍従長に)田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と勅勘をこうむったため、田中は涙を流して恐懼し、翌・昭和4年(1929年)7月に内閣総辞職した。
【三・一五事件】
三・一五事件は、1928年3月15日に発生した、社会主義者共産主義者への弾圧事件。
1928年2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。
作家、小林多喜二は三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表する(『戦旗』1928年11・12月号、発売禁止)。特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買った。(一説には後年の拷問死事件へとつながったといわれる)

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
田中義一(たなかぎいち) (1864-1929) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
会社がつぶれる場合、真の責任者はそのときの社長ではなく、数代前にあることが多い。
太平洋戦争のはるか以前にも、日本をその運命におとしこんだ重大責任者は数々あるが、田中義一はその最も有力な一人である。
国内における治安維持法の改悪などの反動政治、大陸における抗日運動などの激発などを招来し、昭和前期にとりかえしのつかない失敗を重ねた田中義一は、しかしそのあけっぴろげな性格から、「おらが大将」という異名で呼ばれ、一般大衆からはそれなりの人気があった。
しかし昭和3年6月、河本大作による「満州某重大事件」−−張作霖爆殺−−のッ処理のあいまいさを天皇に叱責され、田中内閣は昭和4年7月、総辞職のやむなきに至った。
それから2ヵ月後の9月29日の明け方5時ごろ、麹町の妾宅で、突如狭心症で急死した。
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田中を叱責したとき、まだ28歳であった天皇は「お前は嘘ばかりついている。お前の顔は2度と見たくない」とまでいったといわれ、あとで田中が死んだのはそのショックのためだときかされて、天皇もまたのショックを受け、以後政治的な事柄について口を出すことに遠慮するようになったといわれる。

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