じじぃの「人の死にざま_441_F・エンゲルス」

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フリードリヒ・エンゲルス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
フリードリヒ・エンゲルスは、ドイツ出身のジャーナリスト、実業家、共産主義者、軍事評論家、思想家、革命家、国際的な労働運動の指導者。カール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築、労働者階級の歴史的使命を明らかにし、労働者階級の革命による資本主義がもたらした発達した生産力の継承と資本主義そのものの廃絶、共産主義社会の構築による人類の持続的発展を構想し、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たした。若い頃より活動的で、正義感と勇気があり、終生マルクスの誠実な友人であったと共に、病にあって苦しんだ死の間際まで、周囲への思いやりと闊達なユーモアを欠かさなかったエンゲルスは、酒が大好きな大男でもあった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
エンゲルス (1820-1895) 75歳で死亡。 (一部抜粋しています)
マルクスは『資本論』第1巻を刊行したところで死んだ。
それ以後の膨大な原稿は、おそらくマルクス自身にも読めないような走り書きで、かつ独特の書体のものであった。これを判読し、編集し、刊行する仕事は、すべて親友のフリードリヒ・エンゲルスの肩にかかった。
マルクスの死後12年、エンゲルスのその瞬間まで、エンゲルスはその全精力をこのことにそそいだ、彼はつつましかにいう。「マルクスが第1ヴァイオリンで、私は第2ヴァイオリンだ」
しかし、レーニンはいった。「われわれのこの科学は、学者であり闘士であった2人の合作である。この2人の間の友情は、人間の友情について昔の人の語り伝えているいかなる感動的な物語よりも美しいものであった」
エンゲルスは1895年(明治28年)8月5日に、喉頭がんのため、ロンドンで死んだ。
その遺書には、死骸は火葬にし、灰は水葬にすることを望むとあったので、遺骸は火葬場に送られた。8月27日、エンゲルスの骨壺は友人に抱かれ、エンゲルスが愛したロンドン南方のイースト・ボーンの岸から6マイル離れた沖で、秋近いドーバーの波に投ぜられた。だから、エンゲルスの墓は存在していない。

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