じじぃの「人の死にざま_432_増井・光子」

増井光子 - あのひと検索 SPYSEE
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コウノトリ自然放鳥 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4Tacw8sGd2Q
兵庫県コウノトリ郷公園 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=KywNSrNVD9Q&feature=related
増井光子 画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/44/7d817f5ec21321df045ae5daf1b3c513.jpg
野生生物の保護 「人と牛とコウノトリ 写真あり
http://www.keirinkan.com/kori/kori_synthesis/kori_synthesis_b_kaitei/contents/sy-b/3-bu/3-2-5.htm
上野動物園長、増井光子さん死去…落馬もと? 2010年7月15日 YOMIURI ONLINE
上野動物園(東京)で初の女性園長を務めた増井光子さんが13日午前6時過ぎ(日本時間)、滞在先の英国で死去した。
73歳。告別式などの日程は未定。日本動物園水族館協会によると、増井さんは英国で乗馬の競技中に落馬したという。
大阪市生まれ。麻布獣医科大(現・麻布大)を卒業後、1959年から上野動物園に勤め、女性獣医師の先駆けとなった。パンダの人工授精による繁殖チームにも参加し、85年のチュチュ(誕生から2日後に圧死)、86年のトントン誕生に立ち会った。
90年からは多摩動物公園長(東京)、92〜95年には上野動物園長を務め、いずれも女性初の園長として注目を浴びた。
東京都を退職後、96年に母校の麻布大教授に転身。99年には横浜市立よこはま動物園ズーラシア」の初代園長に就任したほか、コウノトリの野生復帰に取り組む兵庫県立コウノトリの郷公園長も兼務した。
◆情熱的な努力家
パンダの人工繁殖をした当時の上野動物園長だった浅倉繁春さん(82)は、「非常に情熱的な努力家だった。当時は女性に宿直はさせていなかったが、増井さんはいつも泊まり込み、上司としては困るぐらいだった。最後まで動物のため熱心に活動していたと思う」と話した。現在の園長で、増井さんと40年近く親交のあった小宮輝之さん(62)は、「野生動物を見に行くために毎週夜行バスで各地に出かけるような、動物を心から愛した人だった」と述べた。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090128-945694/news/20100715-OYT1T00548.htm
あの人に会いたい「増井光子(獣医師)」 2010年11月7日 NHK
獣医師で、東京・上野動物園初の女性園長・増井光子さん。小さい時からの動物好き。獣医を目標に専門の大学で学び、上野動物園への就職を希望する。しかし、動物園に女性獣医がいない時代。増井さんがとった作戦とは? 上野動物園時代は、日本初のパンダの人工繁殖に成功し、脚光を浴びたが、その陰に苦い失敗もあった。
その後、多くの動物園園長を歴任。希少動物の繁殖と、野生復帰に情熱を注ぐ。その集大成が、コウノトリだ。

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増井光子 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
増井光子(1937年1月27日-2010年7月13日)は大阪府大阪市出身の獣医師。上野動物園長、よこはま動物園ズーラシア園長、兵庫県立コウノトリの郷公園園長(非常勤)、麻布大学客員教授を歴任した。日本の女性獣医師の草分けであり、エンデュランス馬術競技の選手でもあった。

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『蘇るコウノトリ―野生復帰から地域再生へ』 菊地直樹/著 東京大学出版会 2006年発行
里に暮らす鳥 (一部抜粋しています)
ここに1枚の写真がある。1960年8月に兵庫県北部の但馬地方の出石川で高井信雄氏が撮影したこの写真には、7頭の但馬牛と編み笠、モンペ姿の1人の女性と12羽のコウノトリの姿が映っている。
人とコウノトリの共生とはこういうものか−−そう感じる人もいるだろう。懐かしい気持ちを抱く人がいるかもしれない。
この写真は「35年前、みんな一緒に暮らしていた」というメッセージを伝えるポスターとなり、第6回環境広告コンクール環境広告大賞・環境庁長官賞(ポスター部門)を受賞した。人とコウノトリの「共生」を象徴する写真として一躍有名になったのだ。どんな言葉よりも、理屈よりも、たった1枚の写真が人とコウノトリがともに暮らしていた姿をいきいきと物語っている。
しかしコウノトリと牛と人間が川辺でともにいる風景を、今を生きている私たちは長らく見ることができなかった。なぜなら農業の機械化が進み農耕用の牛を飼わなくなったからであり、人も川辺に寄りつかなくなったからである。なによりコウノトリは1971年に日本の空から消えてしまったからである。そう、この写真が撮影された11年後に日本のコウノトリは野生下で絶滅したのである。
この写真は、「暮らしていた」と過去形で表現されているように、絶滅を憂い、過去を懐かしむものにすぎないのであろうか。そうではないだろう。ポスターは、「もう一度大空へ帰したい」と呼びかける。「一緒に暮らしていた」過去を再発見し、現在を見直し、未来を創造するためのイメージとしても位置づけられるのだ。
長年にわたる保護増殖事業が実り、兵庫県豊岡市に、絶滅したコウノトリを再び野生に戻すための拠点である兵庫県立コウノトリの郷公園(以下、郷公園)が開園したのは、絶滅から28年後の1999年11月のことである。ここを拠点に、コウノトリの野生復帰に向けたさまざまな取り組みが進んでいる。2005年秋、飼育下で生まれ育ったコウノトリを試験的に野外に放す「試験放鳥」が行われ、コウノトリがいる風景が復活した。
日本の空から姿を消したコウノトリ、「絶滅」、そして「野生復帰」と聞いてコウノトリは人里離れた場所に生息する孤高の鳥であると思うかもしれない。たしかに、孤高の鳥としての気品がコウノトリにはそなわっている。
だが、コウノトリはけっして人里離れた場所に生息していたのではない。田んぼや里山に生息していたのである。田んぼや里山は、人が自然に働きかける生産と生活の場であり、さまざまな生きものが生息することができた場でもあった。人と生きものが相互にかかわりながら、ともに暮らしてきた環境に生息していた日本のコウノトリは、人里から離れて生息する遠い鳥ではなく、人に近い鳥であった。里に暮らす鳥だったのだ。

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増井光子の言葉
「無給でもいいから働かせて」

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増井光子 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=y37XTIH7CIuavAPMyOGtCQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCQQsAQwAA&q=%E5%A2%97%E4%BA%95%E5%85%89%E5%AD%90%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1