じじぃの「人の死にざま_426_藤田・嗣治」

藤田嗣治 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB/24655/
モンパルナスの日本人 Leonard Foujita in Montparnasse 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=sT7oq5Ke_ng
Leonard Tsuguharu Foujita 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s8WbJ-zMOKg
自画像 画像
http://www.momak.go.jp/img/2006/347/imgFoujitaImage.jpg
フジタ礼拝堂

ノートルダム・ド・ラ・ペ教会
日本人画家としてエコール・ド・パリの画壇で認められたレオノール藤田(藤田嗣治)が、フジタ礼拝堂向かいのシャンパンメーカーMumm社の当時社長であったルネ・ラルーの依頼により設計したチャペル。
こじんまりとした佇まいの教会内に入ると、1966年6月から8月にかけて彼が描き上げた壁一面のフレスコ画に圧倒される。
http://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/western_europe/french_republic/RHE/118463/
FOUJITAと日本 2015年10月31日 NHK Eテレ
藤田嗣治レオナール・フジタ。パリで最も有名な日本人画家でありながら、その生涯は厚いベールに覆われてきた。戦争画を理由に戦争責任を指弾された藤田はフランスに帰化。戦後は一度も帰国することなく生涯を閉じたからである。
戦後70年の2015年。藤田を再評価する試みが進んでいる。
生涯の映像化が、初めて実現することになった。監督は、小栗康平。その生涯から「近代化以降の日本人そのもの」を見つめたいと語る。また、今秋には、東京国立近代美術館で、所蔵する藤田の全作品の公開が始まり、フランスではパリの銀行の倉庫に眠っていた2000点の遺品が初めて公開された。新資料や小栗監督の視線を通して、天才画家の実像に迫っていく。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/archive/151031.html
藤田嗣治 ウィキペディアWikipedia) より
藤田嗣治は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
【生涯】
1886年明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八 金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも『Nu couche a la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
帰国後は戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)に葬られた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
藤田嗣治(ふじたつぐはる) (1886-1968) 82歳で死亡。 (一部抜粋しています)
藤田嗣治は太平洋戦争後、昭和25年、パリに渡り、29年フランスに帰化し、さらに34年、73歳でカトリックに改宗した。そのとき彼が語った「私は士族の出である私の家から与えられた嗣治という名も、神道も捨てるつもりである」という言葉には、戦争中おびただしい戦争画を描いたために敗戦後彼を糾弾した日本の美術界への嫌悪と、ひいては日本への憎悪がこだましていた。
しかし、死の2年前、パリ東北50キロのランスの大聖堂の大壁画を描いた教名レオナルド・フジタは晩年しきりに清元や常磐津(ときわず)を聞きたがり、広沢虎造浪花節森の石松」のレコードを日本からとりよせ、塩カラと塩昆布で米のメシを食っていたといわれる。しかし日本人に対するときは胸をそらして、フランス人レオナルドに戻った。
彼は前立腺ガンにかかり、死の半月ほど前、療養先のスイスのチューリヒから、日本にいる数少ない友人の一人、画家高畠達四郎に電話して、最後の別れを告げる間にも、痛い痛いと悲鳴をあげて泣いた。
チューリヒの病院で、1968年(昭和43年)1月29日午後1時15分に死んだ。

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