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ヴィルヘルム・レントゲン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845年3月27日-1923年2月10日)は、ドイツの物理学者。1895年にX線の発見を報告し、この功績により、1901年、第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
【生涯】
1845年3月27日にドイツのレンネップ(現在はレムシャイトの一部)で生まれた。
1875年から約1年間、ホーエンハイム農業学校で教授を務めたが、実験を行なう時間がないため助教授としてストラスブール大学に戻った。ストラスブール大学では主に物理定数の精密測定を行ない、その業績から1879年にギーセン大学の物理学の正教授に就任した。ギーセン大学では、カー効果や圧電効果など、光学や電磁気学に関する研究を行なっている。1888年にクントがベルリン大学に移り、ストラスブール大学では後任としてフリードリッヒ・コールラウシュをヴュルツブルク大学から迎えた。このためヴュルツブルク大学でもポストが空き、かつて在籍した事もあるレントゲンが教授として招かれた。1894年には学長に選ばれている。 ヴュルツブルク大学では圧力をかけた時の固体や液体の物性変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めた。これが翌月のX線の発見へと繋がった。
1895年11月8日、ヴュルツブルク大学においてクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付いた。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒いボール紙で覆われており、既知の光は遮蔽されていた。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きることを確認した。これにより、目には見えないが光のようなものが装置からでていることを発見した。後年この発見の時何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。実験によって1000ページ以上の分厚い本や金属も透過するが鉛には遮蔽されることがわかり、また検出に蛍光板ではなく写真乾板を用いることで鮮明な撮影が可能になった。
光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことからレントゲンは放射線の存在を確信し、数学の未知の数をあらわす「X」の文字を使い仮の名前としてX線と名付けた。7週間の昼夜を通じた実験の末、同年12月28日には早くも論文(新種の放射線について)をヴュルツブルク物理医学会会長に送っている。さらに翌1896年1月には、妻の薬指に指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を論文に添付して著名な物理学者に送付した。
X線に関する論文をさらに2報発表した後、1900年にレントゲンはミュンヘン大学に移った。ここの物理教室での同僚にマックス・フォン・ラウエがいて、1912年にX線回折像の撮影を行なってX線が電磁波であることを初めて明らかにした。X線の正体はこれまで謎であったが、透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用されたため、この功績に対し1901年最初のノーベル物理学賞が贈られている。ミュンヘン大学には1920年まで在籍したが、この間に書いた7報の論文は結晶の圧電効果など全てX線に関係のないものであった。なお、1919年には妻が亡くなっている。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許等によって個人的に経済的利益を得ようとは一切せず、ドイツの破滅的インフレーションの中でガンのため1923年2月10日に逝去した。

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『科学技術Xの謎』 京都大学総合博物館/監修 化学同人 2010年発行
レントゲンによるX線の発見
ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン、その名前を知らない人はほとんどいないのではないでしょうか。世界中にその功績が知られた研究者です。レントゲンが『放射線の新種』として1895(明治28)年12月28日に発表した報告書は、またたく間に欧米を席巻しました。この歴史的発見が、物理学者や医療関係者だけにとどまらず、世界中の人々の関心を集めたのは、"手が透けて骨をみることができる"という新しい世界をわたしたちに示してくれたからです。レントゲン自身は、数学で未知の数を意味する"X"をもちいて、新しく発見したこの光線を"X線"とよんでいました。しかし、レントゲン自身によるこの造語よりも、多くの人がその功績をたたえて"レントゲン線"とよび、発見から100年を経た現在でも「レントゲンをとる」という表現が日常生活のなかで使われています。
レントゲンによるX線の発見を日本に伝えたのは、発表から2ヵ月ほどたった1896(明治29)年2月、当時ドイツに留学していた物理学者長岡半太郎からの手紙でした。日本の第一線の物理学者たちは、X線発見の知らせを受けて次々に追試実験に乗り出します。また日本で広く知られるようになったきっかけは、2月29日付『東京医事新誌』第935号に掲載された記事で、ベルリンの内科学会での講演を紹介するとともに、すでに医学への応用が提唱されていました。その後、3月7日付『時事新報』をはじめとした新聞などで、この大発見が伝えられ、日本中の人が知ることのなったのです。

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