じじぃの「人の死にざま_410_北里・柴」

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北里柴三郎 記念館 動画 YouTube
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プロジェクトJAPAN 「近代医学に革新をもたらした 北里 柴三郎」 動画 NHK
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北里柴三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
北里柴三郎は日本の医学者・細菌学者である。医学博士、男爵。初代伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)所長、日本医師会創立者、初代慶應義塾大学医学部長、初代北里研究所所長。「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意)との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。
【人物】
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。幼少期は腕白坊主として知られていた。軍人を志していたが、両親の願いにより藩校時習館から熊本医学校へ進学する。熊本医学校でマンスフェルトに出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった。
1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学、1883年(明治16年)に医学士となる。在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り予防医学を生涯の仕事とする決意をし、卒業後長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職。
同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学。コッホに師事し1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させた。さらに、血清療法という菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。
1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられている。柴三郎に対する人種差別を理由とする見解を明確に裏付ける証拠はみつかっていない。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
北里柴三郎 『北里柴三郎』中公文庫 官に靡かず私を貫く。熱と誠の反骨人生 【執筆者】山本貴光 (一部抜粋しています)
北里柴三郎は、当初、軍人か政治家になりたいと考えていたらしい。もし、親の意向に沿って熊本医学校へ進んでいなかったら、日本の医学はどうなっていただろうか。
結局は東京医学校(のち帝国大学医学部)に進み、内務省衛生局に入局。そこからドイツへ留学し、細菌学で有名なコッホの下で学ぶ。破傷風菌の純粋培養に成功し、抗毒素を発見、血清療法の基礎を確立したことは、彼の業績の中でも最もよく知られている件であろう。こうした業績のために、欧米の大学から招聘の声がかかるが、これを辞退して帰国する。
政府や東大筋からは冷遇されたものの、福沢諭吉らの援助によって私立伝染病研究所を設立。野口英世志賀潔、奏佐八郎といった錚々たる弟子を輩出している。後に同研究所が文部省に移管となると、北里は辞職して自前の研究所を設立に至る。
ただ1人の医学者としてのみならず、組織者としての腕も振るった北里は、人に「熱と誠があれば何事も達成するよ」と述べたという。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
北里柴三郎 (1853-1931) 79歳で死亡。
ドイツのロベルト・コッホに師事して破傷風菌の純粋培養、ジフテリア血清療法などの業績をあげ、北里伝染病研究所を設立した北里柴三郎は−−彼自身は東大医学部出身だが、その後慶応医学部の総帥たるべき運命におかれ、東大閥と宿敵の関係となった。が、結局彼は明治から昭和にかけて日本医学界の大御所的存在となり、巨富と栄爵を得るに至る。
晩年顔面神経痛と音声の不自由をきたしたが、身体そのものは頑健無比で、死の前々日も慶応病院の歯科に歯の手入れにいったほどであったのに、昭和6年6月13日の朝、麻布の自邸の寝室の蒲団の中で安らかに大往生をとげているのが発見された。脳溢血を起こしたのであった。
彼はブルジョア生活の限りをつくしたが、死においても、生前からこんな風に死にたいと希望していた通りに死んだ。

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北里柴三郎 Google 検索
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