じじぃの「人の死にざま_403_クリストファー・リーヴ」

クリストファー・リーヴ - あのひと検索 SPYSEE
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A Tribute to Superman 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qbHi1aGzTYs&feature=related
Christopher Reeve Superbowl commercial 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OFYSUPlZmcg
クリストファー・リーヴ 『ウィキペディアWikipedia)』より
クリストファー・リーヴ(Christopher Reeve, 1952年9月25日-2004年10月10日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督。
【人物】
ニューヨークで、小説家で大学教授のフランクリン・リーヴとジャーナリスト、バーバラ・ジョンソンの間に生まれた。1974年にコーネル大学を文学士として卒業した後、ジョン・ハウスマンの指導するジュリアード音楽院に入学した。ジュリアード在学中にクラスメート、ロビン・ウィリアムスと友人になった。1978年のリチャード・ドナー監督作品『スーパーマン』Superman に抜擢されるまで、舞台やテレビの昼メロ『Love of Life』に出演したりした。『スーパーマン』は興行的に大成功し、続編が三作製作された。
彼は1980年に、タイムトラベル・ロマンス作品『ある日どこかで』Somewhere In Time でジェーン・シーモアと共演した。この作品は公開当時それほどの人気はなかったが、その後特に大学生の間で「カルト映画」となった。
1995年5月27日、彼はバージニア州シャーロッツヴィルでの乗馬競争で転落、脊髄損傷を起こし首から下が麻痺した。彼は映画出演からほとんど引退し、リハビリテーションに専念することとなった。また、妻のディナとともに「クリストファー・アンド・ディナ・リーヴ麻痺資源センター」をニュージャージー州ショート・ヒルに開設し、身体の麻痺に苦しむ人たちにより独立して生きることを教えることに専念した。
2004年にはアテネオリンピックのコマーシャルに出演したが、10月9日に自宅で心不全を起こし昏睡状態となり、10日にニューヨーク州のノーザン・ウェストチェスター病院で死去した。52歳。

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『人体再生に挑む』 東嶋和子/著  ブルーバックス 2010年発行
車いすのヒーロー (一部抜粋しています)
ニューヨーク市に生まれたリーヴが俳優への夢をつかんだのは、1978年。26歳だった。映画『スーパーマン』のオーディションを受け、主役に抜粋される。以後、87年の第4作までのシリーズで、スーパーマンとしての名声を確立した。ほかにも『日の名残り』など、数多くの映画やテレビドラマ、舞台で活躍した。
スポーツマンとしても有名で、ヨット、スキューバダイビング、スキー、グライダーや飛行機操縦、乗馬などを楽しんだが、悲劇は、馬術競技の最中に起きた。95年、騎乗した馬が柵の手前で立ち往生し、リーヴは頭から落ちた。脊髄を損傷し、首から下が動かなくなったのである。
6ヵ月のリハビリテーションののちニューヨークの自宅に戻ったリーヴは、驚くべき精神力で回復への道を探る。事故から10ヵ月後、第68回アカデミー賞式典に人工呼吸器をつけて車いすで出席した。1年3ヵ月後には、民主党全国大会でスピーチをしている。
「驚異的なスピードでの回復と社会復帰、そのための彼の努力によって、彼は、アメリカの脊髄損傷者のシンボル的存在となった」(日本せきずい基金)のである。
96年、脊髄損傷を治療する医学・医療を推進するため、クリストファー・リーヴ財団(CRF)を妻ディナの協力で設立した。「脊髄再生医療ができるなら、自分が最初の被験者となってもいい」、「7年後の50歳の誕生日には立って歩き、支援してくれた人と乾杯したい」と語り、NIH(米国立衛生研究所)の予算増額を求めるなどのロビー活動も積極的に展開した。98年には、自伝『Still Me』が全米ベストセラーとなった。
「自分は楽観主義者である。傷ついた部分以外の脊髄は健在のはずで、いつでも動き出す準備は整っている。残された人生をこのままの状態で過ごすつもりはない」と、1日4時間ものリハビリに耐えた。
依然として肩より下は動かず、人工呼吸器も必要だったが、芸術活動を再開したリーヴは99年、テレビ映画『裏窓』を制作した。ヒッチコック作品のリメイクであるこの作品で、彼は車いすに乗って事件を目撃する主人公をみごとに演じた。
この年、「アメリカ麻痺協会(APA)」とクリストファー・リーヴ財団(CRF)」が「クリストファー・リーヴ麻痺財団(CRPF)」となり、リーヴは会長に就任した。脊髄再生研究推進や患者のための福祉推進をめざして、「車いすのヒーロー」としての役割を演じきろうとしたのである。日本せきずい基金NPO設立総会に「日本のみなさん、決してあきらめないでください。もはや脊髄再生は夢ではありません」というビデオメッセージを寄せたのは、この年の10月であった。
2002年9月、50歳を迎えるときに英米両国で出版された2冊目の著書のタイトルは、『Nothing is Impossible』。しかし、04年10月9日、リーヴは自宅で心臓発作を起こし、翌日ニューヨークの病院で息を引きとった。52歳だった。
「Walk Again 2006」の冒頭で流れた追悼ビデオは04年11月、リーヴが亡くなった直後に政策されたものだった。印象的だったのは、パーキンソン病と闘うアメリカ人俳優マイケル・J。フォックスの、オマージュの言葉である。
「僕はいま、彼がいない空白を見るのではなく、彼が残したものを見たい」
コップに水が半分残っているとき、「あと半分しかない」と思うか「まだ半分もある」と思うかは、その人次第。けがや病気で失ったものを嘆くのではなく、残された機能を最大限に生かすこと、失われた機能を再建する可能性を探ることこそが大切だ。このリーヴのメッセージを、フォックスがしっかりと受けとめたのだ。

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クリストファー・リーヴ Google 検索
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