じじぃの「人の死にざま_391_蒋・介石」

蒋介石 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3/2197/
戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止−蒋介石が早期決定・中国 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CFyFOvfltU
なぜ蒋介石は日本に対して賠償を請求しなかったのですか? 2014/7/1 Yahoo!知恵袋
回答
1945年8月15日の蒋介石のラジオ演説が、「以徳報怨」(徳を以って怨みに報いる」という言葉で象徴されるような内容を含んでいた為、(そのラジオ演説そのものは賠償問題のみを対称にしたものではありませんが)蒋介石が寛大だから賠償請求をしなかったのだ、という考え方と、
そうではなくて、日華平和条約(1952年)の時点では既に蒋介石政権は台湾に押し込められており、生き残りそしてかなうのならば大陸への反攻を実現する為には、日本の支持が必須であって、台湾に残した日本の資産の没収だけで後は要らない、という形にした方が、外交政策上得策と判断したから、という考え方があります。
後者の場合、具体的に何が根拠というよりは、当時の国際情勢から考えて、という意味です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11131281456
やりすぎ都市伝説 「2015秋」 2015年9月23日 テレビ東京
【司会】今田耕司東野幸治千原兄弟 【ゲスト】的場浩司、YOU、中山秀征、大和田獏、清水ミチコ伊集院光 【プレゼンター】中田敦彦オリエンタルラジオ
▽昭和史を裏で動かした謎の人物 安岡正篤とは?
吉田茂ら総理大臣の裏に実力者いた。それは安岡正篤という人物で、彼は日本の指導者を育成していた。
平成という元号安岡正篤が残していたと中田敦彦が話した。伊集院光は戦時中の日本の政治家も影響を受けていて戦犯に裁かれようとしたが、蒋介石アメリカから救ったと語った。
http://yarisugi.jp/
蒋介石 ウィキペディアWikipedia) より
蒋介石中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで中華民国元首の地位にあった。
1975年4月5日、死去。死因は心臓麻痺とも心臓病とも言われる。
蒋介石歴史的評価
蒋介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面。
蒋介石毛沢東に会ったアメリカの外交官は、座り方に注目して両者の違いを見極めようとした。背筋を伸ばし、気品を備えた蒋介石に対しゆったりと温和であった毛沢東を比べている。
戒厳令時代には、中華民国の指導者、そして「中国4000年の道徳の体現者」として尊敬の対象とされ、蒋介石銅像中華民国のあちこちにあった。さらに台湾の学校には孫文蒋介石肖像画が必ず飾られていた。切手等には蒋介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖を真似たものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。
実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品、巨額の金銀やドル紙幣、料理人を含めた優秀な人材を運び込んだ。このことが後に中華人民共和国における文化大革命時の美術品の組織的破壊から守ることとなった上、インフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。また、戦後の台湾島一帯は、冷戦下においてアメリカと強い関係を持つ蒋介石が統治したから、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。
【中国大陸】
蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、中国国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。
【人物】
陽明学の信奉者である。戦後にGHQ安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。

                                        • -

『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
日中戦争
1937年、中国と日本の間で日中戦争が勃発した。中国は大きな損害を被り、また多くの領土を失った。首都は南京から重慶へ移転することを余議なくされ、1939年までに日本は中国沿岸全域を封鎖し、7つの大都市のうち6つを占領した。
対日戦線の統一のために、共産軍は蒋介石の国民党軍に国共合作を呼びかけた。蒋介石は最初それを拒否したが、軍の司令官たちがその合意を強く勧めた。しかし国共両者の関係はまもなく悪化した。国民党軍の無力は、共産軍が農民のレジスタンスを組織化するのに成功したのと全く対照的であった。
日本の真珠湾攻撃によって、中国は第二次世界大戦におけるアメリカ、イギリスの同盟国となり、蒋介石は同盟国の勝利に希望をつないだ。1945年、日本が敗北したのち、アメリカは国民党と共産党との調停に乗り出したが失敗し、1946年、再び内乱が起こった。

                                        • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
蒋介石(しょうかいせき) (1887-1975) 87歳で死亡。 (一部抜粋しています)
蒋介石は1975年4月5日、心臓発作のため台北で死亡した、と発表された。この日は旧暦で3月3日にあたり、中国ではお墓詣りとお墓掃除をするしきたりで、日本では、彼岸の中日にあたる。
もともと彼は「まず内を安んじ、のち外をはらう」という戦略で、抗日より中共撃滅を先決としてその目的達成にあと一歩という1936年、日本軍にその父を爆殺された張学良と、その黒幕周恩来の策謀による、いわゆる「西安事件」で、全面的に日本との戦争に転換したのである。
8年を越える日中戦争ののち、太平洋戦争における日本の敗北により、蒋介石は戦勝者たることを得たのだが、最初に心配していた通り、彼は中共に追い出され、1949年台湾に落ち、アメリカの保護により命脈は保ち得たものの、大陸反攻の呼号むなしく、1975年その翌年の毛沢東の死を見ることも叶(かな)わず、ついにこの地で命果てる羽目になった。彼はまさしく庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)をとられたのである。死にあたり、おのれの人生を計算して、彼の心境果して如何(いかん)。

                                        • -

蒋介石 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=uIadTLb1L4nWvQPs07W7DQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCoQsAQwAA&q=%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1