じじぃの「人の死にざま_359_千代の山」

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横綱伝】 昭和20年代 動画 YouTube
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千代の山雅信 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
千代の山雅信(ちよのやままさのぶ、1926年6月2日-1977年10月29日)は大相撲の力士で第41代横綱。本名杉村昌治。身長192cm。出羽海部屋所属。
【人物】
北海道松前郡福島町に生まれる。
昭和24年(1949年)10月場所新大関で13勝2敗の初優勝、これは北海道出身力士として初めての優勝だった。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが、横綱前田山のシールズ事件をはじめ当時の横綱陣への批判が渦巻いていたあおりを受けて横綱昇進は見送られた。昭和26年(1951年)5月場所14勝1敗で3度目の優勝、ようやく横綱となった。初めての北海道出身者・横綱審議委員会推薦・相撲協会推挙による横綱である。また、千代の山以降連覇して横綱になれなかった大関は出ていない。
昭和28年(1953年)には成績不振で休場の折に横綱返上を申し出たりもしたが、当時千代の山横綱大関のなかで一番若かったこともあって協会は再起に期待の方針を出し横綱返上は認めなかった(これ以降、返上・降格を申し出た横綱は存在しない)。昭和30年(1955年)には連覇で復活、昭和32年(1957年)1月場所には全勝優勝を達成した。
独立して最初の場所である昭和42年(1967年)3月場所に弟子の大関北の冨士が初優勝、十両でも弟子の松前山が優勝した。その後、北の富士横綱に、独立時の弟子から北瀬海を関脇に育て、出身地も卒業した小学校も同じ千代の富士をスカウトし、幕内力士にはしたが、大成を見ることなく肝がんのため51歳で没。
千代の山の死後、九重部屋は独立して井筒部屋を興していた北の富士が両部屋合同の形で継承した。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
10月29日−千代の山雅信 (第41代横綱・51歳)
"生きている仁王"と称された横綱だった。
全身刃鋼のような筋骨隆々たる肉体。そしてリーチの長い両腕から放つ矢のような突っ張りは土俵の脅威そのものだった。
栃若時代の前の時代を彩った昭和の名物横綱として千代の山の存在は忘れ難いものがある。
九重親方になっての昭和42年2月、文家を許さぬ出羽一門から独立。スタートを切った同年春場所大関北の富士が幕内優勝、松前山が十両優勝2階級制覇という快挙を成し遂げ、千代の山を男にした感激は今なお私の脳裏に焼きついている。
千代の山の九重によって、佐田の山栃ノ海、栃光ー北の富士といった新たな好取組が生まれた。彼は部屋別総当たり制の貢献者の一人といえるだろう。

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