じじぃの「人の死にざま_336_サルトル」

ジャン・ポール・サルトル - あのひと検索 SPYSEE
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サルトル 実存主義とは何か 第1回 実存は本質に先立つ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HkBEL1ONyGM

100分 de 名著 サルトル実存主義とは何か』 2015年11月4日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【語り】小口貴子 【ゲスト講師】海老坂武(フランス文学者)
●第1回 実存は本質に先立つ
人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存(現実に存在すること)が先行した存在である。
だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、自分自身で意味を生み出さなければならない」と高らかに宣言したサルトルの講演は、その後世界中で著作として出版され、戦後を代表する思想として広まっていた。その第1回は、「実存主義とは何か」を読み解き「根源的な不安」への向き合い方を学んでいく。
「人間とは〇〇である」を疑うのが実存主義
人間は自らの決断によって人生を作り上げていかなければならない。
例えば、ペーパーナイフは髪を切る道具としての「本質」が決められており、そこからペーパーナイフは金属などで作られて存在する。一方、人間とペーパーナイフは異なる。人間は真っ白の中から未来に向けて自分で自分を決定する。選んで、存在する。人間においては「実存」が「本質」に先立つ。
●第3回 地獄とは他人のことだ
私は好奇心から鍵穴を覗いている。私はひとりでその行為に没頭している。突然廊下で足音が聞こえた。誰かが私にまなざしを向けている。私はもう鍵穴を覗くことはできない。
私は、他者からまなざしを向けられているかぎり、他者の対象にすぎず、そして、対象であるかぎり、自由が侵害されている。そこで、私は、自由を取り戻すために、対象であることから脱却しなければならない。そのために、今度は、私が他者にまなざしを向け返す必要がある。こうして、私と他者との関係は、まなざしを向けるか、まなざしを向けられるかの緊張した「相克関係」になるというのである。
●第4回 希望の中で生きよ
人間は根源的に与えられている「自由」をどう生かしていけばいいのか。
サルトルは「実存主義とは何か」で、自らのアンガージュマン(社会参加)という概念を提唱し、人間は積極的に《状況》へと自らを《投企》していくべきだと訴える。社会へ積極的に参加し、自由を自ら拘束していくことが、自由を最も生かす方法だと主張するのだ。それは、サルトルが生涯をかけて、身をもって実践した思想でもあった。
どんなに厳しい状況にあっても「自由」を生かし、「希望」を失わずに生きていく方法を学んでいく。
https://sp.nhk-book.co.jp/text/detail/index.php?webCode=62230562015
実存主義 ウィキペディアWikipedia) より
実存主義 (Existentialism) とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在 (essentia) に対する現実存在 (existentia) の優位を説く思想。
【不安の時代】
「主体性が真理である」として神から与えられた可能性を実現することに生の意義を見出したキルケゴールに対して、しかし、第一次世界大戦において、そのような個人を置き去りにした近代思想の惨禍を目の当たりにして、個人を哲学的考察の対象にしようという機運が盛り上がり、神の死を宣言し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者として、1930年代、ドイツのマルティン・ハイデッガーカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が図られ、こうした考え方は第二次世界大戦後、世界的に広がりをみせることになった。
第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった実存主義は、サルトルアンガージュマン(他の実存と共に生きるための自己拘束) の思想に見られるように社会参加色が強く、1960年代の学生運動の思想的バックボーンとなった。
この、支配制度に対する非支配的個人の重視は、サルトルの思想が1970年代に入ると、 構造主義などから批判を受け、低調になっていくものの、広く受け入れられている。他者を支配管理する実存はあり得ない。
実存主義を哲学のみならず、文学、芸術などにも拡大解釈する場合 (オットー・フリードリッヒ・ボルノウなど) 、パスカルドストエフスキー等も実存主義者だと解される場合もある。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
4月15日−ジャン・ポール・サルトル (フランス哲学者)
行動する知識人と言われ、その実存主義の哲学は日本の若者たちにも圧倒的な支持を受けた人だった。
海軍技術将校の父とあのノーベル平和賞の従妹にあたる母を持ったサルトルは1938年、「嘔吐」でフランス文壇にさっそうとデビュー。
サルトルは哲学者であると同時に劇作家でもあった。その作風は一貫として権力と体制への反抗といってもよかった。
日本の若者たちがそんなサルトルを愛したのは、天皇国家ニッポンという呪縛からの解放を求めたからなのかも知れない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
サルトル (1905-1980) 74歳で死亡。 (一部抜粋しています)
第二次大戦後「実存主義」の旗手として、全世界の青年たちの魂をつかんだジャン=ポール・サルトルは、70年代にはいると急速に思想的に孤立した存在となった。
彼は1973年から視力障害を起し、75年には作家廃業を宣言した。
以後サルトルはモンパルナス近くの小さな借家で、印税だけの、月3000フランという、当時のフランスの労働者の月収平均5000-6000フランよりはるかに少ない、いわば最低のつましい生活をし、レストランに現れるときも、よれよれの背広にレーンコート、ウールの襟巻という姿であった。彼自身「80まで生きたら、私は無一文になるよ」といっていた。また、「私の葬式の費用はどうすればいいのだろう?」と尋ねたりした。
彼と「契約結婚」をしたボーヴォワール女史が、彼の家と、歩いて5分のアパルトマンに住んでいて、毎日かよって、もはや本の読めない彼のために本を読んでやるのが日課であった。
サルトルはそれでも文学上の会合にでたり、イタリア旅行などを試みたが、高血圧、動脈硬化、糖尿病などによる思考力鈍麻(どんま)、めまい、顔面その他の筋肉麻痺、運動失調などが相ついで現われ、はては時ところをわきわめない排泄の不始末まで引き起こすようになった。彼は「恍惚の人」になったのである。
そして、1980年3月20日から、肺水腫のためにパリ市内ブルーセ病院に入院したが、4月15日午後9時に死亡した。たまたま自宅に帰っていて、電話によってかけつけたボーヴォワールは、死んだサルトルのそばに身を横たえて抱いてやろうとしたが、看護婦からサルトルが床ずれのために身体に壊疽(えそ)をおこしているからといったんとめられた。
ヨーロッパでは、まだ土葬がふつうであったが、遺言によって遺骸は火葬に付された。
ボーヴォワールは6年後の1986年4月14日、循環器系疾患で死亡し、モンパルナスのサルトルの墓の隣に埋葬された。

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