じじぃの「人の生きざま_37_オシム」

イビチャ・オシム - あのひと検索 SPYSEE
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【W杯】日本敗戦にオシム氏「日本に欠けているのは殺し屋の本能」 2010.6.20 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/sports/soccer/100620/scr1006200050015-n1.htm
オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』 木村元彦/著 集英社 2005年発行
「アイデアのない人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない」 (一部抜粋しています)
故郷が世界史の表舞台に始めて登場するのは1914年6月28日である。オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア人青年ガウリーロ・プリンシボフの銃弾に倒れ、これを契機に第一次世界大戦が勃発するのだ。世に言う「サラエボ事件」である。
オシムボスニアの首都であるこの街に1941年5月6日に生まれた。それはまさに激動の時代の最中だった。生を受けるちょうど1ヵ月前の4月6日、ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻したのだ。枢軸国はベオグラードを爆撃し、11日間で陥落された。ボスニアで占領軍であるドイツとイタリアの傀儡(かいらい)国家「クロアチア独立国」に編入された。以降、この地ではドイツ占領軍とそれに抗(あらが)うチトー率いるパルチザン軍との闘いが延々と展開されるのである。
長い抵抗運動の末、オシムが4歳の時、サラエボは解放された。第二次世界大戦終結し、独立したユーゴスラビアの建国とともにオシムは生長する。彼が暮らすボスニアは、過半数を占める同一の民族が存在しない多民族地域で、ユーゴの中で民族名を冠しない唯一の共和国だった。中でも首都サラエボセルビアクロアチアムスリムの3民族が融和する多元主義精神の極めて発達した年であった。
「彼の人格の形成にはそのサラエボ生まれであるということ、そして両親の影響が大きい。特に母親の存在が大きいのよ」
妻のアシマが、千葉県浦安市・舞浜の自宅でそう語る。
惜しむの母は特異の裁縫で家系を支える一方、子供に対しては非常に教育熱心な女性だった。
それは学習に対してだけではない。弱者に対する慈しみを持つことや異なる習慣や文化を持つ物を見下さず尊敬するようにオシムに説いた。
オシムは今でも石炭を見るのが大嫌いである。その理由は幼年期にある。
毎年大雪に見舞われるサラエボの冬は身も凍るほど寒い。
そこで暖房燃料である石炭が各町村に配給される。とはいっても丁寧に宅配されるわけではない。役人の馬車や車がやって来てブロックごとに放り出し、野積みにして行き、そこから先は各家庭に仕事になる。
母はまだ幼かった息子にこの石炭を高齢者や戦争で負傷した障害者の家に運んであげるように命じた。氷点下を示す真冬。オシムは悴(かじか)んだ小さな手で黒く重い固形燃料を両手に持ち、何軒もの家に配り歩いた。
母の両親、すなわちオシムの祖父と祖母はそれぞれ南ドイツに移住していたポーランド人とチェコ人であった。それゆえか、母は厳格なだけでなく、スラブ独特のユーモア感覚を持ち、いかなる時もジョークを忘れぬ性格でもあった。このあたり、現在のオシムに繋がる。
オーストリアで出版された伝記『Das Spiel des Lebens』にはこんな話が残っている。
オシム家の隣には大戦中の活躍が認められて出世した将校一家が住んでいた。ある日、母はこの将校の母堂と道で出くわした。
時候の挨拶を「あら、お元気ですか?」とだけ聞けばよかった。しかし母は茶目っ気たっぷりに「あら、スターリンのママ、お元気?」と言ってしまった。特に他意は無く、偉い軍人の母なので、無邪気に冷やかしただけであったが、時代が悪かった。
1948年にスターリンとチトーは対立し、ユーゴはコミンフォルム(ヨーロッパ共産党情報局)を追い出されるのだが、この当時はまだソ連はユーゴにとってビッグブラザーだった。恩あるロシアの英雄に対して何たる不敬。
タブーを恐れぬギャグが密告され、母は2日ほど、拘置所に留め置かれてしまった。
戦後復興の貧しい中で、少年たちはサッカーに興じた。
ジェフ千葉のクラブハウスでのオシムの回想。
「サッカーを始めたきっかけなどという上等なものはない。それ以外にやることがなかったからだ。貧乏な家庭だったし、他のスポーツはカネがかかった。ボールは靴下を丸めたものだった。それをまた別の靴下に入れて、どんどん重ね合わせて上から縫いつけた。テニスボールで普通に試合をやったこともある。おかげで凄い技術と感覚が身に付いたよ。まあ、サッカーをやるのは時間潰しでもあったんだ。本もないし、ラジオだって10軒に1軒の家庭にしかない、そんな中でボール1個で3時間はリフティングをやっていた。
サラエボ、あの複雑な歴史に彩られた地域・・・・」
と言ってオシムは言葉を繋ぐ。
「歴史的にあの地域の人間はアイデアを持ち合せていないと生きていけない。目の前の困難にどう対処するのか、どう強大な敵のウラをかくのか、それが民衆の命題だ。もちろんそれは物を盗むとか、人を騙(だま)すとかそんなことでなない。今日は生きた。でも明日になれば何が起こるか分からない。そんな場所では人々は問題解決のアイデアを持たなければならなくなるのは当然だ」
世界に冠たる軍事大国ナチスドイツを、知恵と勇気のゲリラ闘争で、唯一ソ連の力を借りずに自力で打ち勝った東欧の国、その名はユーゴスラビア・・・・。
「同時にサッカーにおいて最も大切なものもアイデアだ。アイデアのない人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない。でもアイデアは練習だけでは身に付かない。鍛えられない。バルカン半島からテクニックに優れた選手が多く出たのは、生活の中でアイデアを見つける、答えを出していくという環境に鍛えこまれたからだろう。さらに言えば・・・・」
サラエボ、アイデア、そしてサッカーの相関関係を続ける。
「ある選手が、そういったアイデアを身に付けているかどうかは、サッカーのプレーを見なくても、普段からの言動を見ていれば予想できる」
−−監督が鉄道員のクラブであるジェレズニチャルに入団したのはどんな理由からですか。
「ここ(クラブハウス)に住んでいて、そこ(眼前のグラウンド)にスタジアムがあったら、他にどこでプレーするんだ?」
−−ご自宅が近くだったのですね。
「毎日練習も見に行っていた。ボールが飛んで来たらそれを持って帰って、何日かしたら返しに行ったりしたものだ」
オシムは13歳でジェレズニチャルに入った。最初の数週間、シューズを買うお金がなく、裸足でプレーをしていた。練習試合でゴールを決めた時にユースの監督からスパイクをもらった。育成年代が現在のように細かいカテゴリーに分かれていたわけではない。
「今よりも全然いいサッカースクールだった。これをやれ、あれうぃやれという人間がひとりもいなかった。だから自分たちで好きなことを好きなようにトライしていた。ひとりの時はリフティングをして、ふたりになると1対1、4人で2対2。それもいろんなルールを決めて、勝手に始めた。勝手に始めたことで身に付いていった」
サッカー同様にオシムは学業も優秀な学生だった。時に数学に秀でていた。妻のアシマとの馴れ初めも、知人の紹介で、オシムが彼女の数学の家庭教師をしたことがきっかけであった。
少女アシマは驚いたという。
無骨そうに見えた大男は難解な数式をものすごく分かりやすく、簡単に教えてくれるのだ。
「当時から人にモノを教える才に長(た)けていた」とアシマは回顧する。
母親はオシムを医師か大学教授にしたかった。実際、サラエボ大学から大学院に進んで数学の教授にならないかという誘いもあった。
それでもサッカー選手への道を選んだのは家庭の事情だった。
「ユーゴでプロリーグができたのが1963年くらいだったか。家族全員が父の年金だけで暮らしていくことはできなかったので「それなら僕が何とか稼いで来る」と言って、サラエボのチームに入団したのだよ。そのチームが選手に払う奨学金は、戸との年金の3倍だったからだ。その後、より多くの奨学金を払うというジェレズニチャルからオファーがあり、そちらに移籍したというわけだ。最初は大学に行きながら、プレーをしていた。そう、専攻は数学。これはサッカーの役に立っていると思う。ロジカルに考える習慣がついた。誰を誰のマークに行かせるか考えて、足したり、引いたりする。それでも最後は11人、面白いもので数学の教授というと皆、恐れるんだ(笑)。何回で怖いというイメージなんだろうな。でも私は友好的で、高校時代は数学のできない同級生を集めて教えてやったりしていたな」
−−教えることがやはり好きだった?
「そういうわけじゃない。落第していこうとするクラスメイトを黙って見ているわけにはいかないだろう? まあ、数学の教授にならずにサッカー選手になったのは私が人生で最初に冒したリスクだ。両親は大反対した。プロがどうなるかも分からないし、怪我をしたらそこでおしまいだから」
ジェレズニチャルは同じ共産圏に属していたチェコスロバキアのクラブ、オストラヴァと頻繁に交流があった。親善試合が行われる度にチェコの名産品クリスタルグラスとユーゴ生のスパイクが好感された。当時オストラヴァの攻撃的MFとして活躍していた現チェコ代表監督カレル・ブリュックナーはこの時のオシムを背の高い、ユニークなFWとして記憶に残している。
プレーヤーとしてのオシムは「シュトラウス」との異名を取った。ウインナー(ウイーン風)ワルツを完成させたヨハン・シュトラウス=彼が作曲した3拍子のワルツを踊るかのように、華麗にボールを捌(さば)いたところから由来する。
ハンカチ1枚分のスペースがあれば、3人に囲まれても自在にキープできるドリブルの名手と謳(うた)われたが、反面ボールを持ちすぎるとの批判もあった。
おそらくイビチャ・オシムの現役時代のユーゴでのプレーを唯一見た日本人であろう、山崎洋ベオグラード大学教授はその感想を「オシムが持つと長いんだよ。球を離さないんだ」と述べる。
2003年の秋に亡くなったボスニアの名物アナウンサー、ミルコ・カミナーシュビッチは、「オシムのキープは凄かった。ジェレズニチェル対ゼニッツアの中継で、俺はこう実況した。オシムが持った、そのままドリブル、ひとりかわした、ふたり目も抜いた、またドリブル・・・・。観たまま伝えると翌日相手のサポーターから投書があった。『お前の実況通りに本当にオシムが走りまくっていたのなら奴はとっくにピッチの外に出ているだろうよ』。でも本当にそれくらい、キープしていたんだ。以降、俺はこう言った。オシムが待った。それではリスナーの皆様、しばらくは音楽をお楽しみ下さい」
−−以上の話をボスニアで拾って来ました。それくらい、監督は凄いドリブラーだったわけですね。
     ・
オシムと日本との最初の縁は東京五輪であった。ユーゴの代表として来日し、日本を相手に2ゴールを上げている。
「経路がベオグラードアムステルダム、アンカレッジ、そしてトーキョー。あの時は長旅で疲れて空港からのバスの中でもう寝ていた。ようやくホテルに着いてベッドに横になったら地震があったので、それでまたびっくりして飛び起きた。チーム構成はセルビアクロアチアボスニア、ほぼ全民族から来ていていいチームだった。ただスロベニアマケドニアはいい選手がいなくて招集されなかっな。民族籍がどおうだの、出身がどうだの、全く関係がなかった。日本については、来る前まで、箸で食事をするとか、どうやって座るとか、ゲイシャがどうとか、そんな知識くらいだったが・・・・」
この時に、生まれて初めてカラーテレビを鑑賞して感激し、また農村をサイクリングの最中には、見ず知らずの外国人にいきなり梨を振る舞ってもてなしてくれるという日本人のホスピタリティに触れて感激し、親日家になったと言われている。

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