じじぃの「人の死にざま_295_阿久」

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阿久 悠 作詞 「青春時代」 動画 YouTube
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阿久悠物語の番宣(田辺誠一及川光博出演) 動画 YouTube
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阿久悠 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
阿久悠(あくゆう、1937年2月7日-2007年8月1日)は、日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町鮎原)出身。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章旭日小綬章受章。自他共に認める阪神タイガースのファンであった。
【来歴・人物】
本名は、深田公之(ふかだひろゆき)。阿久悠ペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する)。長男は作曲家の深田太郎
作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは演歌、アイドル歌謡曲、フォークソングコミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてかかわる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。
2001年(平成13年)に腎臓がんを患い、同年9月12日にがんの摘出手術を受けた。それ以後はがん治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管がんのため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。70歳没。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。

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『生きっぱなしの記』 阿久悠/著 日本経済新聞社 2004年発行 (一部抜粋しています)
作詞のこころ
最初の2、3年は、グループサウンズがらみの詞を書いていたが、大して売れなかった。同世代の作詞家たちがこのブームの中で、長者になっていくさまを、横目で見ていたのである。
口惜しさも羨ましさもほどほどで、それほどの焦りはなかった。注文通りではなく、最初からこっちの勝手に書いていたから、ああ、ぼくの詞はヒットに繋がらない種類のものだと、思っていた。
「歌謡曲らしくない」とか、「歌らしくない」と時々言われたが、らしくないものを発見したり書いたりするのがぼくの個性だと思っていたから、そんな時は、ああ、そうですかと言って引き退った。そのことで論争する気はさらさらなかった。まだそれほど作詞に対して本気でなかったのだろう。
それにしても、売れなかった。放送作家として、週10本近い番組を抱え、上村一夫と劇画の連載を持っていたから、生活に困ることはなかったが、それでもあまり売れないとだんだん本気で口惜しくなってきて、主流の歌謡曲、いわゆるらしいものを書いてみようかという気にもなった。
書けそうだった。しかし、書けても誇らしく思えなかった。それは、他人が肥やした畑に種子だけ蒔かせてもらっているような気がしたのである。書くなら、やはり、らしくないものにしようと思った。それで作詞の注文がなくなるなら、仕方のないことである。
だが、どこかに、曖昧ながら自信があった。それは、時代で、大した根拠もないひらめきだが、時代とぼくの距離がだんだん近づいている感じがしていたのである。
と思っていたら、「白いサンゴ礁」「港町シャンソン」「白い蝶のサンバ」と、3曲つづけてヒットが出た。特に「白い蝶のサンバ」は、予想をはるかに越えた大ヒットになった。そのヒットによって歌の強さを知る。
それまでも、テレビ、ラジオで毎日のように名前の出る超多忙の放送作家でありながら、じゃあ、阿久悠という名前をどの程度の人が認知してくれているかというと、ゼロに近かった。「作・構成 阿久悠」というクレジットなどは、誰の目にも入っていなかったのである。
それが、「白い蝶のサンバ」1曲で、「作詞・阿久悠」が知られたのである。それに、歌というものが社会を翔けめぐる速さというものを実感した。これは只事ではない。歌は好みの人のお遊び品として届けるものではなく、未知の無現の人々に対して、時代の区分を発信するものだと思ったのである。
その上、たかが1曲が稼ぎ出す金額としては、驚くべきものであった。半年後、最初の印税の支払いを受けた時、ぼくの当時の生活感覚より、ゼロが1つ多いと思った。そして、これを美味しいと思ってはいけない、大変な、重い事だと考えるべきだと、気を引き締めたものである。
作詞が面白くなってくる。注文も殺到する。不思議なことに、当初と変わらず「歌謡曲らしくない」詞を書きつづっているのに、今度はすべて売れるようになる。
「笑って許して」「真夏のあらし」「ざんげの値打ちもない」「また逢う日まで」「さらば涙と言おう」「昨日 今日 明日」「さだめのように川は流れる」「天使になれない」「愛は燃えているか」「とても不幸な朝が来た」「さようならをもう一度」『愛する人はひとり」「ピンポンパン体操」、これらすべて昭和45年と46年のものであるから、面白くないわけがない。
2年前、何の根拠もなしに、時代と保区の距離が接近して来たという予感が、当たったのである。
ここまでたくさん書いて、自分でも驚くほど売れると、もうしばらくはこの仕事から足を抜けないだろうと思えてきた。本職は放送作家であるとか、本当は小説家を志しているとかをエクスキューズにして、いつでも逃げられる姿勢で、いいところだけを啄(ついば)むわけにはいかなくなったのである。作詞に対して本気であるところを、社会や業界に対しても示さなければ、失礼というものだろうと思うようになる。
そこで、当初からずっと言いつづけてきていた「歌謡曲らしくない」とか、「歌らしくないもの」を、具体的に理論武装する必要が生じてきたのである。今まで誰も書かなかった匂いの歌を、偶然の隙間探しではなく、作詞家阿久悠の思想、個性として固める。窮屈でもそれにのっとって書く。それが阿久悠の詞であることを確立させる。
後に、30年もあとになって、その時にメモした阿久悠作詞家憲法を本に発表したが、それまでは誰にも見せていなかったものである。憲法は15条まであるから、その何条かは時に応じて話していたかもしれないが、15条ある中での何条だという話し方はしなかったということである。
30年後の本とは、岩波書店『近代日本文化論5 都市文化』に所載の「怨からの脱出−−私の歌謡曲作法」のことである。これはNHKの「人間講座」でも使った。
1 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。
2 日本人の情念、あるいは精神性は、「怨」と「自虐」だけなのだろうか。
3 そろそろ都市型の生活の中での、人間関係に目を向けていいのではないか。
4 それは同時に、歌的世界と歌的人間像との決別を意味することにならないか。
5 個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に、社会へのメッセージにすることは不可能か。
6 「女」として描かれている流行歌を、「女性」に置き換えられないか。
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第1条に、美空ひばりによって完成したと思える流行歌と来るのは、まさに、ぼくの本心そのものである。この1条さえ深く解釈して追求すれば、あとの14条は付則にすぎなくなる。それほどぼくにとって、美空ひばりという存在は大きかった。
歌手と作詞家としてのウェイトではない。ずっと昔、昭和24年、ぼくが12歳の時から美空ひばりはぼくの頭上にあった。なぜなら、美空ひばりとぼくとは全くの同年であるからである。
同年であることによる尊敬、羨望、畏怖、劣等意識、見栄、意地、野心、誇りなどが何十年もつきまとい、とうとう作詞家として立つ時のテーマにまでなってしまった。
この第1条を噛み砕いていうと、「美空ひばりが歌いそうもない歌」ということである。同年生まれだからといって、ここまでの意識を持つことは異常かもしれないが、それが12歳で始まっていると厄介である。トラウマといっていい。
しかも、時代は焦土の時である。20歳を過ぎてから同年の人の中に才人を発見しても、何とも思わないが、12歳、ぼくは淡路島の田舎の只の少年である時、彼女は誰知らぬ人のない大スターで、焦土と廃墟の地に奇跡の花を咲かせたといっていい天才である。比べてみて、ぼくが重く重く受け止めるのも無理からぬことであろう。
お蔭で、「美空ひばりが歌いそうもない歌」という作詞家としての大テーマが出来、それはそれで成功した。ぼくは美空ひばりから逃げまわっていた。スタジオやパーティで近づきそうになると、身をかわした。ぼくがそこそこ以上の作詞家になっても変わらなかった。面と対い合うと、12歳の昔の只の少年に戻ってしまうことをぼくは知っていて、そいなることが無念だと思っていたからである。ぼくにはそういうところがある。
それでも、美空ひばりのための詞は数篇書いた。しかし、表面から向きあって勝負したとは思えない。らしくないものどころか、懸命にらしいものを探して書いた。それが礼儀のように感じていたのだが、かえって非礼であったかもしれない。
ぼくの30数年の作詞家生活に於て、後悔することがあるとするなら、美空ひばりのために歴史的な詞を提供出来なかったことである。この同年の大歌手が52歳の若さで急逝した時、ぼくがぼくを責めたのは、「馬鹿だな、阿久悠、逃げてばかりいて」という言葉であった。その思いは、年々歳々深まっているのである。
さて、作詞家憲法については、これですべてを語ったことになるのかもしれない。30数年前、ひそかに自分の作詞のこころをメモしたのであるが、今もこのままと信じているものもあれば、自分が年齢を重ねたことによる変化、日本という社会の迷走、21世紀という時代の無表情、これらで修正を加えたいものもある。
しかし「私の履歴書」であるから、それはそれ、書いた時の気負いのままにしておきたいと思う。
「女」として描かれた流行歌を、「女性」と書き換えることは、今も信念としてつづけている。ぼくの歌の中の女性は強い。いや、強いのではない。自分の決心を大事にするだけである。そして、かっての心ある男がそうであったように、ぼくの歌の中の女性は、相手を思いやり、自分を鎮める。だから、めったなことでは泣かないのである。ただし、最近になって、もう一度「女」の登場する歌を、という声がないでもない。
「どうせ」と「しょせん」を排して、日本の歌謡曲が成立するわけはないと強い反発を受けたこともあるが、ぼくは今も「どうせ」と「しょせん」で言い訳しないメンタリティの方を選んで書いている。
まあ、ここまでやってみる気が起きたのだから、面白い時代に、面白い仕事に巡り合い、面白い生き方が出来たということになるのだろう。
スター誕生
きっかけがどうであれ、テレビ局のつもりが何であれ、ぼくらはこの番組から、どうしたらテレビ時代のスターを誕生させられるかだけを、考えていた。始まってみるとぼくの頭の中に、日本テレビ音楽班と渡辺プロダクションの全面戦争、などという思いはまるでなくなっていた。
ほしいのは結果であった。結果は2つあって、1つはテレビ番組として高視聴率を稼ぐこと、1つはこの番組からスターを誕生させることであった。仮に番組が面白おかしく進行して20%の視聴率を取ったとしても、スターとヒット曲が生まれなければ失敗といえるだろうと、ぼくらは話し合っていた。
昭和46年10月3日が、記念すべき第1回の放送である。この日から約12年間「スター誕生!」という番組は存在するのだが、ぼくらが関わったのは10年間で、のこりの2年間は同じタイトルを引き継いだオーディション番組であるが、違う目的を持った別の番組である。
ぼくがここで言う「スター誕生!」は、最初の10年間の、萩本欽一が司会をし、阿久悠中村泰士森田公一三木たかし、都倉俊一、松田敏江が審査員をつとめたものに限定される。
ぼくらは実に10年間、信じられないほどの情熱と誠意と、また、大いなる野心もこめて一つの番組に関わったのである。
そして、それは、一番組の奇跡的な成功にとどまらず、音楽業界のパワーバランスされ変えるものになった。もちろん、ぼくをはじめ審査員で加わった若い作詞家たちも、信頼と尊敬を得る成功を手に入れたのである。ぼくはこの時代のテレビと音楽と才人たちのことを、『夢を食った男たち』という本で著わしている。ロマンチストがいたのだ。
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昭和46年10月3日の第1回放送の視聴率は、意気込みを嘲笑うかのように、希望的予想を下回って4.7%にしかならなかった。これは衝撃的だった。前途が無いとすら思えたものである。それに、どうしても自前のスターを作りたい事情にあった日本テレビも、ぼくら以上に焦りを示して、何とかしてよと、池田文雄とぼくを責めた。
幸運は第1回のチャンピオンに13歳の森田晶子−−のちの森晶子−−がなったことであった。このことによって、審査基準の「鮮度」といった抽象的な言葉が具体的になり、桜田淳子山口百恵とつづいた段階では、はっきりと成功の感触を得たのである。
彼女たちは、「花の三中トリオ」から「花の高三トリオ」まで時代を象徴するそして伊藤咲子岩崎宏美新沼謙治ピンク・レディーとブレイクしつづけ、小泉今日子中森明菜まで約10年、ブームはつづくのである。
その間ぼくは、日本レコード大賞を5回とり、年間1千万枚を超える売り上げの年が2年つづいたり、驚くべきことになっていたのである。それでも時代は移る。

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