じじぃの「人の死にざま_279_G・ブラック」

ジョルジュ・ブラック - あのひと検索 SPYSEE
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George Braque 動画 YouTube
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BRAQUE Georges 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WWg5tj_e0HU
ジョルジュ・ブラック フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジョルジュ・ブラック(1882年5月13日-1963年8月31日)は、フランスの画家。パブロ・ピカソと共にキュビスム創始者のひとり。ピカソよりも画家としてのキャリアでは劣ったが、絵画における発明の才はピカソも一目を置いた。第一次世界大戦を挟んで画風は一変するが、生涯に渡って絵を書き続けた画家である。仲間から「白い黒人」と描写されるほど体格が良く、また好んでスーツを着るハンサムであった。

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『一冊でわかる絵画の楽しみ方ガイド―印象派写実主義から抽象絵画シュルレアリスムまで』 太田治子/著 成美堂 2005年出版
ブラック (一部抜粋しています)
ギターを持つ女
楽器はブラックにとって身近なモティーフであり、時に1909年以降の作品には煩雑に登場する。画家はギターやマンドリン、アコーデオンなどの楽器類が持つ造形美に魅せられ、さらに人の手が触れることのより初めて完成する静物であるという特性に魅了されていたようだ。この作品は初期の代表作の一つといえる。
少女の姿はキュビスムの手法で分割されているが、中心に配されたギターには不思議な存在感があり、鑑賞者の視覚に強く訴えかけている。

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『岩波世界の美術 キュビスム ニール・コックス/著、田中正之/訳 岩波書店 2003年発行 (一部抜粋しています)
実際、2人の画家はどのようにして出会ったのだろうか。ブラックは、1907年のどこかの時点でピカソに対して2枚の名刺に置き書きしている。ピカソから返事を得ようとして、「敬具」あるいは「お忘れなきようお願いします」とブラックはそれらに記している。ブラックへの返礼を忘れないようにと、ピカソは1907年3月あるいは4月のスケッチブックに「ブラックに手紙」と「ブラック、金曜日」と書き記した。彼らの共通の知り合いの数の多さから明らかなとおり、ブラックとピカソはおそらくこの時よりもずっと以前から互いを知っていたに違いない。おそらく遅くとも1905年には知り合っていただろう。しかし1907年春、ブラックは、重要なサロン・デ・ザンデパンダンに出品した作品をピカソに見てもらおうと、彼に連絡を取りたがっていた。ブラックは、その冬レスタックで描いた作品≪レスタックの防波堤≫が1つ何かをなしとげたものだとおもい、おそらくピカソとの対話が互いにとって有益だという直感をもったのだろう。ピカソとブラックがこれらの作品について議論したかどうかはわかっていないが、ピカソがそれらを見たのは確かである。詩人アポリネールがついにブラックを連れてピカソのアトリエを訪ね、そこで≪アヴィニョンの娘たち≫として現在では知られる5人の裸体女性を表したまったく斬新な作品を見たのが11月か12月のいつのことなのか、その正確な日付もまたわかっていない。それがいつであったにしろ、アポリネールがブラックをピカソに紹介したとき、2人の友情が本当に始まったと普通は言われている。
ピカソは、そのエネルギーと野心のおかげで、ブラックよりも先に画家としての成功を得ていたが、その成功は画商や個人コレクターに気に入られたことのよるもので、主要な前衛的サロンには参加もしていなかった。ピカソはサロン・デ・ザンデパンダンにもサロン・ドートンヌにも出品していなかった。しかし彼は、これらの展示会での美術の発展をじっくりと観察もしており、ブラックが新作のレスタックの作品を1907年のサロン・デ・ザンデパンダンに出品したとき、マティスやその追従者とはまったく違った新しい方法の絵画、独創的な才能が登場してきたとピカソが確信したのは確かである。
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サロン・デ・ザンデパンダンの開催中、ピカソは週末をルアーブルでブラックとともに過ごす決心をした。ブラックは、4月27日にパートナーのマルセルに手紙を送っており、それには次のように書かれている。「明日、われわれはオンフルールに行く。今朝、私はピカソを蓄音機の音で起こした。傑作だったよ」。おそらくブラックは、大好きなバッハの曲をかけたのだろう。あるいはピカソエヴァのために採用した愛の歌、ハリー・フラグソンの『最後の歌』だったのかもしれない。ピカソを夢から覚まさせた曲が何であったかのかはともかくとして、パリに戻ったピカソは、このルアーブル滞在の「思い出」である2点の大きな楕円形の作品を制作した≪ヴァイオリン、ワイングラス、パイプ、錨≫ 、≪ルアーブルの思い出≫。安っぽい旅行者向けの絵葉書に見られる字体で、ルアーブルとオンフルールの名が両方に見え、前者の作品にはピカソの暗号MA JO[LIE]の文字も見える。≪ルアーブルの思い出≫では、ピカソは、ブラックの木目を表す技法をしっかりと覚えていたことをはっきりと示している。

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