じじぃの「人の死にざま_276_小津・安」

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映画 東京物語 動画 YouTube
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小津安二郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
小津安二郎は日本の映画監督である。
【生い立ち】
1903年明治36年)12月12日、東京深川の下町に、豪商湯浅屋の番頭だった父虎之助と母あさゑの次男として生まれた。9歳のときに父の郷里である三重県の松阪へ転居。その後旧制三重県立宇治山田中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に入学。映画館通いに熱中して学校の授業には出なかったため、不良学生として寄宿舎から追放された。
【ローポジション】
地面ぎりぎりから撮影する独特の低いカメラアングルと厳格なまでの正面からの切り返しのフィクスショットを特徴とし、ローポジションの映画監督としても知られている。このローポジションで撮った「ちゃぶ台を囲む家族たち」のシーン、あるいは「婚期を逃しかけている娘を心配する父親」「父を思いやる娘」など、日本のテレビにおける「ホームドラマ」の型を完成させた監督でもあり、これらは蒲田調として知られる日本映画の伝統の一部として受け継がれて行った。
【国際的な支持】
映画監督以上に映像芸術家として国際的に知られる。溝口健二成瀬巳喜男黒澤明鈴木清順今村昌平と並んで小津も評価が高く、作品『東京物語』はヨーロッパで人気が高い。
小津を敬愛し、あるいは小津からの影響を明言している作家は世界的にひろがる。その国の映画製作における巨匠も多い。下記のうち、アッバス・キアロスタミは『5 five ~小津安二郎に捧げる~』を、ヴィム・ヴェンダースは『東京画』を、ホウ・シャオシェンは『珈琲時光』をそれぞれ小津に捧げる形で監督している。また、ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の台詞中、「東京ストーリー」という競走馬が何気なく登場している。ジュゼッペ・トルナトーレの『みんな元気』は、老いた父親がイタリア各都市に子供たちを訪ねる話で「東京物語」のオマージュとなっている。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
12月12日−小津安二郎 (映画監督)
松竹大船のシンボル的存在の監督だった。小津調と言われたその世界はまさにホームドラマを絵に描いたような日常的なスケッチ。そんな平凡な日々の中に営まれる人間の喜怒哀楽を限りなく愛しい眼で撮ったのが小津映画だった。
『晩春』(1949)『麦秋』(1951)そして、最高傑作と評された『東京物語』(1953)。
いずれも日本の家庭が写実されていた。そして、人は必ず老いてゆき、やがて逝ってしまう。その儚さ、淋しさこそが小津調の根幹を為していたのではなかろうか。
生涯独身を通した裏には女優原節子への想いがあったと伝えられている。
小津も原も独身のまま。男と女にはこんな愛し方があってもいいのではないかと私は思う。
男は女よりはるかにロマンチストというのが私の考えだが、小津の胸の内に咲いた花はさぞや美しかっただろう。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
小津安二郎 (1903-1963) 60歳で死亡。
「おれは豆腐屋だ。がんもどきや油揚げは作るが、西洋料理は作らないよ」
といって、ひとすじに純日本映画を作りつづけて来た小津安二郎は、昭和38年正月から、かれが作品を作る場合いつもそうしていたように、シナリオ作家の野田高梧と蓼科(たてしな)の山荘にこもり、次回作の想を練っていた。その作品は「大根と人参」という題で、ガンにかかった男が主人公で、その男にそのことを知らすべきか、知らすまいかと家族が悩むストーリーであった。
ところが3月になって、首にぐみのような腫物が出来て痛むので、3月27日帰京、それでも医者にゆくのをいやがる彼を、俳優の佐田啓二らが説得し、4月11日、がんセンターに入院させ、17日手術を受けさせた。
小津は大男であったが、手術中あばれるので、だれか押さえてくれという看護婦の悲鳴に、佐田らが飛んでいくと、小津は「ナンマイダ、ナンマイダ」と唱えていた。念仏など縁起でもないからよしなさい、というと小津は。
「痛くて、痛くて、何かいってないとたまらないんだ。ナンマイダ」といった。
以後、彼は手術の痕にコバルトやラジウムの針を刺す、いわゆるコバルト・ラジウム療法を受けた。そのあとで彼はいった。
「60年生きて来て、いちども長いと思ったことはなかったが、針をいれられた一週間の長さときたら、どう説明していいかわからないよ。そのへんに斧(おの)か何かあったら、自殺したいくらいだったよ。お医者というものは、病気の治療はするかも知れないが、痛みの治療はしないんだね。"痛いですか" "痛いですよ" "そうですか"ってんだからね」
しかしまた冗談好きな彼はいった。
「これでおれも一人前の豆腐屋になれたよ。ガンもどきを作ったんだからね」
そしてまた見舞いにくる客にはだれにも「なおったら、一本とろうね」「なおったら」「なおったら」と繰り返した。
7月1日、小津は一応がんセンターを退院し、その日鎌倉の自邸で祝杯をあげたが、以前酒を飲んでも全然赤い顔をしなかった彼が、海老(えび)をゆでたような顔色になった。
祝杯をあげたが、無事であったのは一週間ばかりで、右手がしびれ出し、やがて痛みに変り、食欲をまったく失い、8月はただ寝たきりの生活になった。佐田らが、がんセンターから、小津がガンだと聞かされたのは9月5日のことであった。
「痛みというものは、100とか112とかいいあらわせないね。ただ痛いというしか言葉がないね」
といい、苦痛のうなり声が玄関まで聞こえる状態になりながら、なお入院をいやがる小津をふたたび無理に入院させたのは10月12日のことであった。小津の家の前は坂道になっていた。そこを担架で下りながら。「この道をよく酔っぱらって上って来たもんだが・・・・」と、彼はいった。
「何も悪いことをしたおぼえはないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう」
と、10月19日に彼は病院の天井を眺めていった。(いかに多くの病人がこの言葉を吐いたことだろう!)
「右足がどこかにいっちゃったのかね。ベッドの下に落っこちてるんじゃないかね」
11月22日には呼吸困難に陥り、気管支切開手術が行われた。以後、声が出ないので、壁にイロハの紙を貼り、その字をさして小津がうなずくことで、わずかに意志が通じる状態になった。
12月11日、見舞いに来た野田高梧は、小津の顔を見た印象を「おぼえていたくない顔だ」と表現して眼をとじた。
小津安二郎は12月12日の午後零時40分に死んだ。それは彼の還暦の誕生日であった。
「午後8時、柩(ひつぎ)にはいって、おやじさんは鎌倉に帰って来た。紅葉がちり敷く山道を、柩をかついで来ると、純白のかけ布の上に、おやじさんの好きだった赤い紅葉が、2ひら、3ひら散りかかった」
と書いた俳優佐田啓二も、それから8ヵ月後の昭和39年8月17日、やはり蓼科から帰る途中、車が橋の欄干に衝突して死んだ。
彼によって真の名女優たり得た名花原節子は、彼の死とともにしずかに消えた。
小津の墓碑銘はただ「無」の一字である。

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小津安二郎の句
「口づけも 夢のなかなり 春の雨」

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