江藤淳 - あのひと検索 SPYSEE
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【ズバリ!文化批評】没後10年、江藤淳の仕事を通してみる日本 動画 YouTube
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江藤淳 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
江藤淳(1932年12月25日-1999年7月21日)は日本の文学評論家、慶應義塾大学文学博士。
夏目漱石の研究などで著名。東京工業大学教授、慶應義塾大学教授等を歴任。1975年日本芸術院賞受賞。他に菊池寛賞、野間文芸賞受賞。
【経歴】
銀行員江頭隆、廣子の長男として東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)に生まれる。
1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。
1979年頃から、米軍占領下の日本人がいかに洗脳されてきたか、日本国憲法が戦後の日本の言語空間を縛っているといったことを問題とし始める。1980年の田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』は、「ブランド小説」として文壇内では激しく批判されたが、江藤は高く評価した。1982年には、『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)。このとき編集後記で同誌編集長宮田毬栄がこの対談について私見を述べたところ、江藤はそれに激怒して社長嶋中鵬二宛に抗議の手紙を送った。1983年、「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなった。
1990年、東工大を辞職して、母校の慶應義塾大学法学部客員教授となり、1992年から慶應義塾大学環境情報学部教授。定年まで1年を残して慶應を去り、1997年大正大学教授。
晩年、理想とする治者とは正反対の存在である永井荷風、西郷隆盛を論じ、意外の感を与えた。
1998年暮れ、慶子夫人が死去、翌1999年7月21日、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、66歳没。妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。ライフワークであった『漱石とその時代』は未完に終わった。妻の闘病生活を綴った『妻と私』を残し、続く『幼年時代』も未完に終わった。
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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
7月21日−江藤淳 (文芸評論家・66歳)
夏目漱石を論じた評からめきめきと頭角をあらわしてきた文芸評論家の重鎮だった。評論がベースであったが他に脚本を手掛けたり、憲法問題にも論客としての顔をのぞかせもした。
穏やかな笑顔の下にはガンとして持論を曲げない鉄の信念を有していた人だった。
そんな男が心のつっかえ棒だった慶子夫人を1年前の11月にガンによって喪うと、坂道を転げ落ちるように生きる気力を萎えさせてしまった。
そして、この日、江藤淳は後追い自殺を図り、天に召されていった。江藤は言っている。
心身の不自由は進み、病苦は堪え難しと−−。
自らも脳梗塞で倒れて以来、彼は彼岸にいる妻の下に行きたかったのだろうと思われる。
私は自殺を否定しない。むしろ、人間のみが用いる崇高な死に方だと思っている。最愛の妻に殉じた江藤の死にざまと見事な夫婦愛に献杯しようではないか。
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江藤淳 Google 検索
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