じじぃの「人の死にざま_264_チャンドラセカール」

【ゆっくり解説】ブラックホールを予言したインドの天才
動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2R_89urAcpU

チャンドラセカール

ノーベル賞
2016-10-03 こまちのブログ
先日放送されたフランケンシュタインの誘惑科学史闇の事件「握りつぶされたブラックホール」ご覧になられましたか?
https://ameblo.jp/pretty7doll/entry-12206173922.html

スブラマニアン・チャンドラセカール
ウィキペディアWikipedia)より
スブラマニアン・チャンドラセカール(1910年10月19日 - 1995年8月21日)は、インド生まれのアメリカの天体物理学者。シカゴ大学教授。
1932年、白色矮星の質量に上限があることを理論的計算によって示し、恒星の終焉に関する「チャンドラセカール限界」を提唱したことで知られる。
【チャンドラセカール限界】
チャンドラセカール限界 は白色矮星の質量の理論的上限値である。
白色矮星は、自らの質量による重力で収縮しようとする力と、構成物質の電子の縮退圧とが釣り合ってその大きさを保っているが、ある程度以上質量が大きいと縮退圧では支えきれないため、白色矮星としては存在できない。その限界質量について、1930年代初めにチャンドラセカールは以下の式を導き出し、その結果から太陽の1.26倍以上の質量を持った白色矮星は存在しないと結論した

 M = { 5.87 \over {\mu^2} } M_s
上式で、Mが白色矮星の質量、Msが太陽の質量である。μは原子の原子核核子の数をその原子の電子数で割った値(電子1個当たりの核子数)である。

                                          • -

『物理学天才列伝 下』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
理想的な学者 スブラマニアン・チャンドラセカール (一部抜粋しています)
星の道化
チャンドラの人生は、別の面でも変わろうとしていた。ケンブリッジ滞在中ずっと考えていたのは、恒星の進化と、自らが導いた奇妙な結論、つまり、大質量の恒星は当時の人々が当然と考えていた白色矮星としては一生を終えられない、という結論だった。チャンドラはこの理論に関する短い論文を書き、(天文物理学紀要)(のちにチャンドラが編集者となる)で発表した。ミルンはこの論文の鍵となるいくつかの近似に異議を唱え、チャンドラに白色矮星の正確な理論を編み出すようけしかける。その研究に取りかかったのは、特別研究員になってからの1934年のことだった。この研究にエディントンは興味を持った。チャンドラは次のように回想している。「研究の日々の進捗にエディントンがとても興味を示した。1台だけ使える計算機も貸してくれた。10月から12月まで3ヵ月間、私の部屋にに週に少なくとも1度、ときには2度か3度やってきた」
1934年末までには正確な理論が完成し、チャンドラはその要約をロンドン王立天文学協会の大会で発表することにした。大会のプログラムを見ると、自分の論文のすぐ次にエディントンが、『相対論的縮退』というタイトルで講演をすることになっていた(相対論的縮退とは、チャンドラの理論において白色矮星の質量限界を導く条件を意味する)。ずっとのちにチャンドラは、次のように振り返っている。「本当に腹が立った。エディントンはほぼ毎日私のところへ来ていながら、自分が論文を発表することなど決して言わなかった」。大会前のティーパーティーの席、チャンドラが友人のウイリアム・マクリアと話をしていると、エディントンが加わってきた。マクリアが「エディントン教授、『相対論的縮退』というのはどう理解すればいいのですか?」と尋ねると、エディントンはチャンドラを見て「君を驚かせるものだよ」と答え、立ち去っていった。
チャンドラは論文を発表し、ミルンが短いコメントを付け加えた。続いて紹介されたエディントンは、いつもの皮肉めいた冗談に続き、すぐに核心に入った。「この大会がら生きて出られるかどうか分かりませんが、私の論文の要点は、相対論的縮退など存在しないことです!」。そしてチャンドラの主張を次のように総括した。「ある限界Mより重い恒星は完全気体状態に留まり、決して冷えることはない。この恒星は放射と収縮を続け、直径数キロメートルに達すると重力が強くなりすぎて放射が抑制され、ようやく安らぎを見いだす。以上がチャンドラセカール博士の主張です」
     ・
チャンドラは自分の正しさに疑いを抱いていなかったが、本当に欲しいもの、つまりボーア、ディラック、パウリといった物理学界の権威たちからの正式な支持表明は得られなかった。個人的には支持の言葉をかけてくれたが、公の議論ではエディントンとやり合ってはくれなかった。チャンドラはワリに次のように語っている。「誰もが身をよせるような凄まじい影響力をエディントンのような人物が持っているのは、まったく驚くべきことだ。また天文学の枠の中で、十分な体探査と理解力を持ち、表に出てエディントンは間違っていると声を上げる人がいないというのも、信じられない事実だ。天文学の文献を端から端まで見ても、エディントンは間違っていたなどという文は一つも見つからないだろう。それどころか、私が白色矮星の研究で天文学の賞をもらっていないのも、偶然とは思えない」。科学の社会における苦い教訓だった。「それがしきたりだった」とチャンドラは言っている。
こうして白色矮星の理論で引導を渡されたチャンドラには、すっかりあきらめて別の分野へ転向するしか道はなかった。チャンドラセカールの質量限界が天文学者に広く受け入れられるのは、およそ30年後のことになる。しかしこの出来事は、チャンドラに驚くべき恩恵をもたらした。新たな分野を定期的に変えるのが自分には合っていることに、チャンドラは気づいた。エディントンが白色矮星の質量限界を執拗に否定してくれたおかげで、科学研究に対する独自の「生と死」というやり方を見いだしたのだった。

                                          • -

フランケンシュタイン チャンドラセカール Google 検索
https://www.google.com/search?rlz=1C1CHPO_jaJP580JP580&sxsrf=ALiCzsYW2OBeepEECd_WLSgjew64jrvbZQ:1671596860030&source=univ&tbm=isch&q=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3++%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB&fir=1ob-St7JOTDONM%252CXAf42Rcj_GFOnM%252C_%253BLugxWmXA6rCRwM%252CF13Pm17X-cZ-1M%252C_%253BqDISOxo35vJHzM%252ClU-HYYsQmPYAyM%252C_%253Bnhb6PicYwsOA8M%252CyspL-Bqu3aBHPM%252C_%253BNf8EClGx5FaFEM%252CyspL-Bqu3aBHPM%252C_%253B4BYN2-8rtfC2FM%252CD0moi3AMfX-rsM%252C_%253BSzVEFwVZ3KrX0M%252CyspL-Bqu3aBHPM%252C_%253B2Ty4XwndvpfXKM%252CNENiMSwSwM67rM%252C_%253BFXvkKOVvQV9UYM%252CyspL-Bqu3aBHPM%252C_%253BalYxvIETqBdz7M%252Cz6Mo6josffWhkM%252C_&usg=AI4_-kTbK_pElsF22JraIXyDvYYcdaQ6PA&sa=X&ved=2ahUKEwiFyrLI74n8AhXZ0GEKHU2CA9AQjJkEegQIHxAC&biw=919&bih=594&dpr=1