じじぃの「人の死にざま_250_プッチーニ」

ジャコモ・プッチーニ - あのひと検索 SPYSEE
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ジャコモ・プッチーニ:「トスカ」全曲 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Ss4TLce7k1o
ジャコモ・プッチーニ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジャコモ・プッチーニは、イタリアの作曲家。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没した。
【生涯】
プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。

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『こんな音楽があったんだ!―目からウロコのCDガイド』 みつとみ俊郎/著 清流出版 2004年発行
イタリア・オペラこそ人生 (一部抜粋しています)
オペラはイタリアから始まった。世界最古のオペラは、イタリアのルネサンス時代の作曲家カッチーニらが作った「エルリディーチェ」と言われている。その後、オペラはイタリアの専売特許になる。
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まあ、ざっとこんな具合に、若い私にはオペラやミュージカルの不自然さが、どうしても理解できなかったのである。しかし、ある瞬間から、私は、逆にこれらをこよなく愛するようになってしまう。オペラもミュージカルも、そして宝塚さえも。何が変わったのか? それは簡単なことで、音楽も芝居も踊りも、すべて一つの舞台の中で楽しめるなんて、こんな贅沢なことはない、と単純に思えるようになったからだ。
考えてみれば、歌舞伎だって、男ばかりでミエを切ったりシナを作ったりで、不自然なことだらけだし、能だって、主人公が前半は普通の人間だったものが後半には怨霊か亡霊になっている、なんていう不自然さを平気でやる。要するに、これはあんまりマジに考えちゃいけない。これはエンタテイメントなんだ。スペクタクルなんだ。そう思った瞬間、私の頭の中には、オペラのエンタテイメント性がはっきりと見えてきた。「月の輝く夜に」の中のしがないパン職人・ニコラス・ケージがなぜ高いお金まで払ってまで"メト"に行って、プッチーニヴェルディを聴いていたのか、その理由がやっとわかったような気がした。
そう思ってイタリア・オペラを聴いていくと、映画「ゴッド・ファーザーⅢ」でマフィアたちの抗争と絡まるマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」(このオペラは復讐がテーマでもある)のドラマチックな響きが、そっくりそのまま、あの壮絶な復讐劇とオーバーラップしてくるようになる。別に、マフィアのようなドラマチックな人生でなくても、イタリア人は、日常のすべてを楽しみ、すべてをドラマにしてしまうような気がする。女性が目の前を通るだけで声をかける。カフェでオペラのフレーズを口ずさみながら新聞を読む。食事に2時間も3時間もかけて、生きている事を楽しむ(食べることこそ生きている証しと考えるのはラテン人の特色)。こんな生活をしていれば、すべてがオペラチックになってくるだろう。
ファッションと高級車とスロー・フードの国イタリア。このイタリアが世界に誇れる最高の財産がオペラだ。古くはモンテヴェルディ、ベルゴレージに始まって、ヴェルディプッチーニロッシーニドニゼッティといった、イタリア・オペラの作曲家たちの名前を挙げただけでも、「甘い」旋律が聞こえてくるような気がする。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
プッチーニ (1858-1924) 66歳で死亡。
マノン・レスコー」「マダム・バタフライ」「トスカ」などのオペラの作曲で知られるジャコモ・プッチーニは、1924年春、のどに痛みを感じた。しかし彼はひどい喫煙家で、以前から慢性気管支炎にはなれっこになっていたので、あまり気にしなかった。彼はそれより、オペラ「トゥーランドット」を書くのに夢中であった。
9月ごろ、指揮者トスカニーニは彼を訪問し、プッチーニの痩せ方と嗄(か)れ声の甚だしいのに驚いた。
10月に彼はまたのどに新しい疼痛をおぼえ、石の診断を受け、喉頭ガンにかかっていることが判明した。ただし医師はそのことをプッチーニの息子にだけ知らせ、手術を受けるためにブリュッセルの病院に入院することをすすめた。
11月、ブリュッセルの病院に着いたとき、彼は医者にいった。「あなたはどれくらいの時間を私にくれますか。20日はどうしても欲しいのです。オペラを完成しなくちゃなりませんので」
病院でラジウム照射が12日間つづけられたあと、11月24日、手術が行われた。3時間半の手術後プッチーニが外へ運び出されたとき、ラジウムを入れた長い針が7本頸(くび)から飛び出し、銀のカニューレを通して彼は呼吸していた。
プッチーニは紙に鉛筆で書いた。
「こいつが侮辱だ!」
しかし、彼はまた書いた。
「後(あと)どれくらい生きられますか? 12日は必要なのですが」
一見手術は成功したように見えた。11月27日には息子にいった。「フォスカ、私は救われたよ!」
しかしその翌日、プッチーニはまた倒れた。腫瘍が崩壊したのである。彼はベッドの中でころげまわりながら、安楽椅子に坐られてくれといったり、またベッドに寝させてくれ、などいった。絶望にうちひしがれたように頭をふったり、うめき声をたてたり、手をさしのべたり、膝をたたいたりした。
しかし説く実になると彼は平成になり、死ぬ前、黙って手を息子と娘のほうにさし出し、11月29日正午過ぎに息をひきとった。
1926年4月、プッチーニの最後のオペラ「トゥーランドット」が、ミラノのスカラ座トスカニーニの指揮で初公演されたとき、観客の男女は何の打ち合せもしなかったのに、すべて黒い服に身をつつんで集まった。