じじぃの「人の生きざま_32_猪谷・千春」

猪谷千春 - あのひと検索 SPYSEE
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コルチナ イタリア スキー
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猪谷千春  ウィキペディアWikipedia)より
猪谷千春(いがやちはる、1931年5月20日 - )は、日本のスキー選手。
【人物概要】
1956年のコルティナダンペッツォオリンピックで日本人としてはじめて冬季五輪メダリストとなった。その後、IOC委員となり、2009年まで副会長を務めた。日本オリンピアンズ協会でも副会長を務めている。
また、実業家としても活躍し、現在AIU保険会社名誉会長である。
北海道国後郡泊村出身。元妻の晶子はベースボール・マガジン社を創設した池田恒雄の娘。
【略歴】
1953年 コーネリアス・バンダー・スターの支援でアメリカ・ダートマス大学に留学
1956年 アメリカ在住でコルティナダンペッツォオリンピックに出場。スキー男子回転で、金メダリストのトニー・ザイラーオーストリア)に次ぐ2位入賞、銀メダルを獲得した。
1957年 ダートマス大学卒業
1958年 バドガシュタイン(オーストリア)での世界選手権に出場、回転で銅メダル獲得、大回転でも6位入賞を果たす。
http://www.viswiki.com/ja/%E7%8C%AA%E8%B0%B7%E5%8D%83%E6%98%A5
こんな凄い奴がいた 長田渚左/著 ベースボール・マガジン社 2000年発行
「黒猫のツバメ返し」 猪谷千春 (一部抜粋しています)
濃霧だった。転倒者が続出した。アイスバーンの上を白いカーテンが覆っているような舞台でサバイバルレースは続いた。
1956年。コルチナ冬季五輪、アルペンスキー男子回転。順位は2度の滑走の合計タイムで決まる。1本目に6位と出遅れた猪谷は、2本目に勝負を賭けた。
アクシデントは第6旗門で起きた。勢いあまってコースを飛び出したのだ。旗門は両足通過が義務である。当時のルールでは片足通過の場合、集計タイムに5秒加算される。
旗の1本を股に挟んだ。しかし、彼はとっさに右足のスキーを180度後ろ向きにして転倒を回避。軽業師のようなターンでコースに戻ると、再び猛スピードで滑走した。
瞬間芸のような技は「ブラックキャットのツバメ返し」と呼ばれた。とっさのターンがなければ、転倒かコースアウトで失格していたはずだ。なぜ瞬時にそんな技が出せたのか、彼自身も不思議だった。
「無意識でした。相撲でもよく関取がとっさの返し技を出したときに、無我夢中でしたと言うでしょう。あれと同じです」
ではなぜ無意識に早業を出すことができたのか? アルペンスキーはいかに早く滑るかの勝負だ。そのために選手たちは強い肉体づくりと、テクニックを磨くことの全力を注ぐ。加えて彼にはもうひとつ密かに特訓していたものがあった。あくまでアクシデントに過ぎない「転倒」のテクニックを徹底的に追求していたのである。
「スキーは転倒したらすべて終わり。ときには生命さえ終わりになる。だから私はまず転倒を直前に察知できるようにしました。その上で重心を立て直す能力を磨いたのです」
人間は重心が狂えば転ぶ。どんなに足腰が強い人でも、頭の位置を30センチ横にずらせば転がってしまう構造だ。それを回避するために、彼はあらゆる練習に取り組んだ。
メニューにサッカーやテニスまで取り入れた。急な前後左右の方向展開にも、常に俊敏に対応できる反射神経を養うためだ。部屋では目隠しをして歩いた。右利きだと自然に右に曲がってしまう。それをバランスよく真っすぐ歩けるように矯正した。時には火に手をかざして、条件反射を自分の意志で操れるように心掛けた。
水上10メートル以上に設置されたプールの飛び板から何度も飛び込んだ。入水するまでの「瞬間」ともいえる短い時間に、空間に広がった全身を紙を折るように整えての一点入水に全力を注いだ。
そして、まるで猫が屋根から落下するときのような瞬時の身のこなしを体得したのである。
3歳でスキーを始めた。そして1950年代に米国留学の幸運をつかんだ。彼はそのチャンスを最大限に生かした。「全科目平均60点以上でなければ体外活動禁止」という烈しい校則にも、決してめげなかった。
あるゆる時間を有効活用した。腕立て伏せを続けながら読書をした。坐っている椅子をはずして中腰の姿勢のままで教科書を詠み続けた。教室ではいっさいノートをとらず、暗記の訓練にも努めた。
五輪本番では、転倒を回避するための強じんな足腰と、コースを暗記して瞬時に状況を詠む能力が、完全に備わっていたのである。
確かに「黒猫のツバメ返し」は無意識に出た早業かもしれない。しかし、それな出るべくして出た神業だった。その一瞬の中には長く苛酷な時間が凝縮されていた。
五輪本番は「何者かにたたえられた」と思われるほどの悪天候にみまわれた。全長617メートル、標高差251メートル。92旗門のレースは死闘だった。彼の滑走は、人間離れした身のこなしと体を包んでいた黒いウェアから、「ブラックキャット・ダンス」と呼ばれた。
冬季五輪アルペン競技において日本人で銀メダルを獲得したのは、今もってこの猪谷千春ただひとりである。

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