じじぃの「人の生きざま_263_瀬古・利彦」

瀬古利彦 - あのひと検索 SPYSEE
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83年福岡国際マラソン 瀬古VSイカンガー 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=a2XuFEGbwDc
英雄伝説 瀬古利彦 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MtHnkfJFOrc
福岡国際マラソン プレーバック 第37回(1983)
この年2月の東京国際で1978〜80年の福岡で3連覇した瀬古利彦エスビー食品)が、1年10ヵ月ぶりのフルマラソンに出場。日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒で優勝した。恩師の中村清監督が「神様の与えてくれた試練」と言った足の故障からの復活に、ロサンゼルス五輪代表選考会を兼ねた福岡でも、瀬古の走りに注目が集まった。
ラスト100メートル。瀬古が鮮やかなスパートでイカンガーを抜き去り、3年ぶり4度目の優勝を飾った。終盤まで前に出ず、最後に爆発的なスパートで勝つ瀬古の「勝ちパターン」を象徴するレースだった。
瀬古と3、4位の宗兄弟までが五輪代表に。5位はサラザール。6位の伊藤までが2時間10分を切る世界初のレースでもあった。
http://www.fukuoka-marathon.com/playback/1983.html
瀬古利彦 ウィキペディアWikipedia)より
瀬古 利彦(せこ としひこ、1956年7月15日 - )は三重県桑名市出身の元陸上競技・マラソン選手、陸上競技指導者。1970年代後半から1980年代にかけて宗茂宗猛中山竹通、新宅雅也らとともに日本長距離界をリードした。現役引退後はヱスビー食品スポーツ推進局局長を経て、2013年4月よりDeNAランニングクラブ総監督。
【経歴】
早稲田大学3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす(日本人としての優勝も1970年の宇佐美彰朗以来8年ぶり)。1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、アメリカのビル・ロジャースに次いで2位となる。この時の記録2時間10分12秒は日本学生新記録であった。同年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。
オリンピック開催年の1980年、大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社、オリンピックでの勝利を目指したが、ソ連アフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。
1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヵ月ぶりにフルマラソンに出場。日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒の日本最高記録(当時)で優勝し、名実ともに日本のトップランナーとして復帰を遂げる。この優勝により、瀬古は翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル候補として注目を浴びる。同年12月の福岡国際マラソンでも優勝し、ロサンゼルスオリンピックの代表に選出された。
その当時の瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。これは、中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガータンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。また、この2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考レースであったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、ロサンゼルスオリンピックでの金メダルの期待を高めていた。
しかし、迎えた8月のオリンピック本番では、調整の失敗により14位と惨敗する。これは中村が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を知ったことがその原因としてあげられている。

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『逆転の軌跡―ふたりのランナー』 木村幸治/著 講談社 1988年発行
初戦 (一部抜粋しています)
レースが火ぶたを切って落とされたのは、12時15分だった。天候は快晴、13.5度、北西の風2.1メートル、湿度はちょうど50パーセント。
11ヵ国からの外国人招待選手が17人、国内から9人、あわせて26人は、旅費も宿泊費も大会主催者によって提供された今日のレースの盛り上げ役だった。
一般参加の外国人9人、日本人110人はすべて自費でまかなっている。世界でも有名なこのレース「第18回福岡国際マラソン」の開かれる福岡県福岡市にやってきた。
日本人選手にとってこの大会は、その日から236日後に迫ったロサンゼルス・オリンピックのマラソン日本代表を賭けた争いである。
たったひとつのレースで、日本人の中で上位を占めた3人がオリンピックの代表に選ばれることになっていた。
勝負は、選手たちの力で決められる。有名だろうが無名であろうが、招待選手であっても一般参加であっても、この舞台で上位を占めたものが日本代表に選ばれる。それが大会主催者のひとり、日本陸上競技連盟の言い分であった。
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このレースに走った日本選手の中に、ひとりスーパースター的人気を集めている男がいた。
昭和31年7月15日生まれ、鈴鹿山系から流れ出る清流「員弁(いなべ)川」の川づつみに接した三重県桑名市友村の、田んぼに囲まれた屋敷の中で産声をあげた。
名前を瀬古利彦と名づけられた。父勇は当時35歳、母智子は32歳、利彦はこの両親の間に生まれた昭彦、次彦、利彦3兄弟の末っ子である。
生まれたときの体重はちょうど4000グラムで、3番目とあってか安産だった。この子が生まれた日からちょうど2日あと、経済企画庁は経済白書『日本経済の成長と近代化』を発表して、技術革新を推し進める日本の発展を強調しながら、「もはや戦後ではない」とのちのちまで語り伝えられる文句をつづった。
瀬古利彦が、日本アマチュアスポーツ界のエリート的な存在に育っていくのは、いくつかの要因がからんでいると思われる。
ひとつには、彼は早熟の陸上競技選手(アスリート)だった。
昭和45年、三重県中学秋季陸上大会で2000メートルに優勝(6分17秒0)した。
翌46年には、三重県大会2000メートル走で研の中学新記録で優勝(6分3秒2)した。また800メートルにも勝ち(2分5秒5)、三重県中学中距離界の”2冠”を手にした。
翌47年、県立四日市工業高校機械科に入学し、8月山形で開かれたインターハイ800メートルに出場した。1年生ながら自己新記録(1分54秒6)で3位に入賞した。
翌48年、四日市工高2年に進んだ瀬古利彦に、”怪物”の異名がささやかれ始めた、三重インターハイで、2年生ながら1500と800で全国優勝。秋に千葉国体で1500と5000で全国優勝した。
翌49年、18歳になった瀬古利彦は福岡インターハイで800と1500に全国優勝、5000メートルも制して、”3冠”かと騒がれたが、中村孝生(のちに日体大エスビー)に破れて2位に終わった。
その秋、笠松国体1500メートルで高校新記録(3分53秒4)をつくった。翌日の5000でも自己新(14分33秒0)で優勝。陸上競技に力をそそぐ全国のいくつもの大学から勧誘を受けるもとになった。
瀬古が日本陸上界のエリート的存在になったふたつ目の理由は、1浪はしたけれど昭和51年4月、大学スポーツ界の名門早稲田大学に入ったことがあげられる。
高校時代からすでに”怪物”の呼び名があった男には名門早稲田への入学によってさらに花形的な存在と見られる雰囲気が身についた。いうまでもなく、大学へ進んで負けなかった実力があったからであるが、彼はその早大競走部で”陸上の偏執狂的指導者(パラノイアコーチ)”中村清と出会う。
その中村清が、瀬古を大学スポーツ界の範疇(はんちゅう)を超えた人気アスリートにする演出家の役をはたした。中村清は、トラック競技の長距離で日本の頂点に立ちつつあった瀬古を、大学1年からマラソンランナーにつくり変えた。
昭和52年12月、大学2年で走った福岡国際マラソンの5位入賞(優勝ロジャース)から、瀬古は、日本人のマラソン走者には負けない”無敗”の神話を持つランナーとなっていく。昭和59年8月のロス・オリンピックで、宗猛に先着されるまで日本人を相手にはだれも寄せ付けずマラソンで8連勝した。
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待ち構えていたおよそ2万の観衆は総立ちになった。小旗が揺れた。拍手が鳴った。小さな小旗や日の丸の旗がうち振られた。
瀬古が穿いている白いパンツが風に揺れた。
低い傾斜だがすり鉢型になった競技場は、悲鳴と叫びと歓声と、拍手との洪水になった。
バックストレッチに入った。私はそれをゴールライン前のホームストレッチから見ていた。
イカンガーが逃げた。明らかな加速だった。100メートルを17.3秒の速さになった。しかし瀬古もバテることなくあとを追った。ゴールまであと200メートルしかない。
ふたりの差は、1.8メートルあった。そのままの差であと100メートルの地点まできた。
観客が絶叫した。その前で、アッという間の変化が起きた。それまでイカンガーを追うことだけに専念していた瀬古利彦画、初めてイカンガーの前へ出ようとしている気配が見えた。
電光石火のすばやさとは、こういうときにこそ使ってよいことばに違いない。
第4コーナー付近、その最短距離からゴールのテープを切ろうとしていたイカンガーの外側に、一瞬並んだと見えた瀬古の存在は、さらに一瞬後、さっきまで前を走っていた黒人選手に絶望を教えたようだった。
イカンガーは、さらなる加速をして追うことができなかった。5秒後には8メートル、10秒後には10メートルと距離が開いた。
これを100メートル走に換算すれば、瀬古は彼の鼠径(そけい)部の奥深くで17.3秒から13.8秒へのギアチェンジをやってのけたことになる。勝利者はこのとき、長距離走者から短距離ランナーに変身していた。
白い歯が見えた。目が笑った。瀬古の両こぶしが頭上にさしあげられ、彼の胸にはりついていた”29”のゼッケンがゴールのテープに触れた。その刹那(せつな)、数十発の花火が、群青色の福岡の空に小気味よい響きを立て、7色の煙が風下に向かってゆるやかに流れた。
2時8分52秒。
瀬古は彼自身2度目の8分台のタイムを記録し、出場144人のすべての男たちを背後に退けて勝った。
瀬古利彦のゴールから、わずか3秒遅れてイカンガー、3位には宗茂、つづいて宗猛サラザール、伊藤国光と入ってきた。
この結果、幻のモスクワ五輪日本代表に終わった瀬古利彦宗茂・猛の3人が、8ヵ月後に迫った1984年ロサンゼルス・オリンピックの、マラソン日本代表に選ばれることが確定的になった。
換言すれば、3人のマラソン選手はふたつのオリンピック開催期間をまたぐ間そろって、日本マラソン界の確固たるビッグ・スリーたりえたのである。

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