じじぃの「人の死にざま_234_朝河・貫一」

朝河貫一 - あのひと検索 SPYSEE
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「朝河の道」郡山エリア その4 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=332z9DBmEN4&feature=related
朝河貫一 ウィキペディアWikipedia) より
朝河貫一(1873年明治6年)12月20日-1948年(昭和23年)8月10日)は、日本が生んだ世界的歴史学者。イェール大学では“Historian”、“Curator”(キュレーター)、“Peace Advocate”(平和の提唱者)として評価している。
【業績】
第一に「歴史学者」としての業績がある。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、後にイェール大学教授となった。特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群。)の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”The Documents of Iriki” (『入来文書』1929年、昭和4年)である。マルク・ブロックらアナール学派歴史学者とも交流があった。 第二に「平和の提唱者」としての業績がある。『日露衝突』を著し、全米各地で日露戦争における日本の姿勢を擁護し演説した朝河は、日露戦争後の日本の姿から将来の「禍機」を予測し、日本に警鐘を発するため、1909(明治42)年『日本の禍機』を著した。『日本の禍機』で発した警鐘は、後に現実のものとなる。1941(昭和16)年11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。朝河は第二次世界大戦中、戦後もアメリカに滞在したが、終生、日本国籍のままであった。朝河の数々の業績を讃え、2007(平成19)年10月にはイェール大学講師就任100年を記念し、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた。この庭園は2000(平成12)年にニューヨークの国連本部にある「平和の鐘」公園を造ったアベ・シンイチロウ氏によってデザインされた。また、2007(平成19)年9月には、外交官時代にイェール大に学び、自称「弟子」を自認する加藤良三駐米大使(当時)を招いたシンポジウムを福島県郡山市の安積歴史博物館で開催、500人を超す県民、安積高校生に真の国際人・朝河について講演した。
【著作】
・『日本之禍機』(実業之日本社)、『日本の禍機』宗高書房、1985年、『日本の禍機』講談社学術文庫、1987年
・『朝河貫一書簡集』 書簡編集委員会編、早稲田大学出版部、1991年
・『入来文書』 矢吹晋訳、柏書房、2005年
・『大化改新』 矢吹晋訳、柏書房、2006年
・『朝河貫一比較封建制論集』 矢吹晋編訳 柏書房、2007年
・『島津忠久の生ひ立ち』 慧文社、2007年

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「歴史ドキュメンタリー“海を渡ったサムライ 朝河貫一”」 2010年4月4日 BS朝日
【ナビゲーター】ヴァイオリニスト 高嶋ちさ子 【朗読】俳優 渡辺篤史
朝河貫一は1873年福島県二本松市(旧二本松藩)に生まれます。二本松藩戊辰戦争に際し、薩長を中心とした新政府軍に大敗。旧二本松藩士の長男として育てられた朝河貫一は、己の可能性を日本国内に見出せず、海外留学を夢見ます。そして、朝河は福島尋常中学、東京専門学校をそれぞれ首席で卒業、1895年アメリカのダートマス大学に入学します。ダートマス大学では学業優秀、その後イェール大学大学院に入学します。
1905年アメリカ・ポーツマスで開かれた日露講和会議の場に自主的にでかけ、「日本の戦争目的は賠償金、領土の獲得にあらず」と日本が新しい時代の新秩序のために戦っているという「立場」を主張し、世界に理解を求めます。日露講和条約は結果的に朝河の主張通りに決着したのです。
しかし、日本国内世論はこの条約の内容に「弱腰」と怒り爆発、「日比谷焼打ち事件」が起こるなど、その後の日本は大陸進出など戦争への道を歩んでいくことになります。これは、ポーツマス条約の際にとった日本の考え方を覆すことに他なりません。祖国の状況を憂慮した朝河は、1909年名著「日本の禍機」を出版、日本とアメリカはいずれ戦争になると警告しました。しかし、朝河の警告、予言の通りにその後の日本は歩んでいくことになりました。
また、朝河は、祖国・日本の破滅への道を阻止するべく、1941年、日米開戦直前、当時のアメリカ大統領・ルーズベルトからの昭和天皇宛て親書の草案作りに奔走しています。残念ながら、結果は朝河の願いもむなしく太平洋戦争に突入してしまいます。
1948年アメリカ・ニューヘイブンにて永遠の眠りについた朝河は、生涯のほとんどをアメリカで過ごしましたが、最後までアメリカには帰化をせず、世界史的な広い視点を持って日本に忠告を発し、祖国を愛し続けた真の国際人だったのです。
http://www.bs-asahi.co.jp/asakawa/
朝河貫一の予言
日露戦争後の日本の姿から将来の「禍機」を予測し、このまま進めば清国を巡り米国と戦争になると予言した。
・大陸へ進出を図る日本が、戦争へと突き進み、やがて日本が破滅に進むことを予言した。
第二次世界大戦が勃発するとナチスドイツを激しく非難し、ヒトラーはいずれ自殺へ追い込まれるであろうと予言した。

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(日本之禍機 朝河貫一著)_PORTA_(近代デジタルライブラリー
http://porta.ndl.go.jp/service/servlet/Result_Detail?meta_item_no=I000008500&meta_repository_no=R000000008
朝河貫一 Google 検索
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