じじぃの「人の死にざま_212_H・ヘッセ」

ヘルマン・ヘッセ - あのひと検索 SPYSEE
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Hermann Hesse 動画 YouTube
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Hermann Hesse Page Japan
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『生きる技術は名作に学べ』 伊藤聡/著 ソフトバンク新書 2010年発行
もっと上手に甘えなさい――ヘッセ『車輪の下で』 (一部抜粋しています)
ハンスは川に落ちて溺れ死ぬが、そこにはたんなる事故ではない必然が読み取れる。だからこそ、葬儀のさいに靴屋のフライクがいった、「あなたとわたし、我々も、あの子にいろいろとしてやれたことを怠ったのではありませんか」という言葉に説得力がもたらされるのだ。そしてハンスが求めていたのはきっと、彼を無条件で受け入れてくれる居場所のようなものだった。たくさんの人が、「ハンスが破滅するのに手を貸した」のかもしれないと、わたしもおもう。
きっと、他者がいねければ、他者のまなざしを受け止めなければ、われわれは生きていけないし、自分の力だけであらゆる扉を開けて前進していくことはできない。扉を開けてくれるのはつねに他人であり、われわれは、他人の開けてくれた扉をいくつも通り過ぎて、ようやく自分というものをかたち作っていくことができる。ハンスにはそのきっかけが見つからなかった。
しかし−−とわたしはおもう。なぜ作者であるヘッセは、ハンスを最後で溺死させてしまったのか。

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『賢者たちの人生論 プラトンゲーテからアインシュタインまで』 金森誠也/著 PHP文庫 2009年発行
ヘルマン・ヘッセ (一部抜粋しています)
ヘッセは第一次世界大戦第二次世界大戦、そして戦後を通じて高橋健二先生の主張したように、まさに大乗的に『荒野の狼』(1927)、『知と愛』(1930)、『ガラス玉遊戯』(1943)のような衆生(しゅじょう)教化に役立つ小説を次々と発表し、さらに世界平和の実現のために、おのれの意見を論文、講演などさまざまな形式で開陳した。そのためもあって、1946年彼はノーベル文学賞を受けた。
彼の東洋への関心は晩年にも持続したが、日本についてもインド、中国とくらべればわずかなものかもしれないが、かなりの関心を示すいくつかの発言が見受けられる。彼は東南アジアを旅行中、在外日本人の姿に接し、日本の商人の生き方は全く悪質であると酷評している。しかし彼は日本人全体、とくに日本文化そのものには敬意を示した。たとえば、彼は日本の抒情詩に魅了されたとのべ、なかんずく日本人は17字詩(俳句)のような驚嘆すべきものを思いついたと感嘆している。ヘッセはその実例として次のようにのべている。
「ある時ひとりの日本の詩人が2行詩を作った。まだ雪に埋もれた森の中に2、3の梅の木が花をつけたというのである。彼はその詩をその道の人に読んでもらった。するとその人は『ただ、1本の梅の句で十分だ』と言った。作者は相手の言うことがいかにももっともで、自分がまだほんとの単純さからどんなに遠いかということを悟って、友人の助言に従った」
      (『世界文学をどう読むか』1章「わが愛読書」高橋健二訳 新潮社)
訳者の高橋健二先生によるとヘッセがかかげたこの詩は、実は俳句ではなく漢詩であり、
「昨夜深雪埋 前村梅数枝開」を、
「昨夜深雪埋 前村梅一枝開」
に訂正したということだ。さらに高橋はこれについて、16世紀初めの人(村田殊光)の「当道の血脈この句会得なき人はこの道に入り難し」という言葉と、やはり同時代の人猪苗代兼裁の「冬梅の詩に、昨夜数枝開と作りたりしをある人一枝となおす。実に面白し」という言葉を伝えている。
このくだりはなにか禅問答のような趣があろう。
たしかにヘッセは禅は日本においてはじめて開花した仏教思想であると前置きしたあと、「日本には数世紀のこの方、禅のように雄大で、しかも機知に富み、極度に精神化されてしかも遅疑なく、いやたくましく実生活に即したものがあったし、今でもある」と同じエッセーの中でのべている。
さればこそ、太平洋戦争の敗戦直後、日本の若い文士がヘッセに今後の文人としての生き方について助言を求めてきたとき、彼は、西洋思想よりもむしろ禅の精神に従って人生行路を進むべきことをすすめたのだ。ヘッセはさらに西欧の文化はいかに魅力あるように思われようとも、禅に比肩すべき精神と心をもっていないとすら断言している。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヘルマン・ヘッセ (1877-1962) 85歳で死亡。
すでに『ペーター・カーメンメント』『車輪の下』『青春は美(うる)わし』などの作品で一流作家となっていたヘルマン・ヘッセは、1919年、42歳のときからスイスの美しいルガノ郊外にひとり隠栖し、第二次大戦中もナチスには一切協力せず、10年がかりのライフワーク『ガラス玉演戯』などの著作に没頭した。
しかし、ドイツ敗北後の1946年、敗戦国民であるにもかかわらずノーベル文学賞が69歳のヘッセに与えられたとき、彼は持病の坐骨神経痛リューマチの上に、眼病、頭痛などにひどく悩まされていて、ストックホルムの授賞式にも出席出来ない状態であった。
1952年、75歳になった彼の身体の余りな弱りようを見て、親友で2つ年上のトーマス・マンは、「私より先に死んではいけないよ。君が先に死ぬなんて生意気だ。僕のほうが先に死ぬ順番なのだから」と、いたわりとユーモアをこめた手紙を送ったほどであった。(その通り、ヘッセよりもっと健康に見えたマンは、ヘッセより7年早く、1955年に死んだ)
ヘッセはなお生きたが、1962年についに白血病に冒(おか)された。
しかし、彼の生への執着は強かった。8月1日、彼はルガノの家の庭のニセアカシアの枝が折れて、なおちぎれずにいつまでもぶら下がって風にぎしぎしと鳴りつづけているのを見て、「折れた枝」と題する詩を作ったが、その中で、「なお一夏、なお一冬」と生命のつづくことを期待する一節があり、また8日にもその詩を加筆推敲(すいこう)した。
しかしその夜、彼は、ラジオで、彼が限りなく愛したモーツアルトピアノソナタを聴いたあと眠り、9日朝、脳出血を起こして永遠の眠りについた。

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