じじぃの「人の死にざま_198_ガガーリン」

ユーリイ・ガガーリン - あのひと検索 SPYSEE
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人類初の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンに捧ぐ 動画 Gizmodo Japan
http://www.gizmodo.jp/2009/05/post_5519.html
ユーリイ・ガガーリン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンは、ソビエト連邦空軍のパイロット。最終階級は大佐。1961年に宇宙飛行士として人類初の宇宙飛行を成功させている。帰還後に語った「地球は青かった」の言葉は有名。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
ユーリ・ガガーリン (1934-1968) 34歳で死亡 【執筆者】松本仁一 (一部抜粋しています)
約1時間半で地球を1周したガガーリン中尉のボストーク1号は、大気圏突入の態勢に入った。1961年4月12日のことだ。
後部の制動ロケットが点火された。時速2万8000キロのスピードが、どんどん落ちていく。宇宙船は予定された角度で大気圏に突入した。
トラブルが起きたのはその直後だった。宇宙船ががたがた振動を始め、激しい勢いで回り出したのである。予想外の事態だった。
ボストークは、宇宙船と制動ロケットをつなぐケーブルが、大気の摩擦熱で10秒間で焼け切れるように設計されていた。そのケーブルが切れない。宇宙船とロケットは、2つの分銅のようにぐるぐる回りながら、落下の速度を増していった。
このままだと加速が激しすぎ、耐熱シールドが焼けてしまう。2つの物体が衝突する恐れもある。地上の司令室は色を失った。
政府はすでに世界に向け、打ち上げ成功を発表している。何とか帰還しても、ガガーリンが重傷を負っていたり、パニックで精神状態がおかしくなっていたりしたら、それは成功でなくなってしまう。
狭い宇宙船の中では、ガガーリンが座席のわくを握りしめ、必死で揺れに耐えていた。地上との通信は途絶している。何が起きたのかわからなかった。だが彼は、その状況を冷静に頭に刻み込んでいた。
「激しいスピン」
「がたがた揺れながら回る」
「窓は猛炎でおおわれている」
・・・・
長い10分がたった。揺れは次第に納まってきた。ケーブルがやっと焼け切れたのだ。危機は過ぎた。
通信が回復した。「カタパルトで射出する」。地上の声が聞こえた。10秒後、彼は空に放り出された。高度7000メートル。パラシュートが開いた。パラシュート降下は特異な科目だ。あとは自分の世界だった。
目の下に、ボルガ川が銀色のリボンのように光って見えた。彼は息を吸い込み、大声で歌いはじめた。
「祖国はみている聞いている
 祖国の息子が
 どこを飛んでいるのかを・・・・
彼の好きな『祖国は聞いている』という歌だった。
こうした事実が明らかになったのは、旧ソ連の情報が公開されるようになった最近のことだ。
ガガーリンの打ち上げは、実は賭けに近かったのです」
当時、国防省宇宙局長だったケリム・キリモフ退役中将(80)は語る。
ボストーク1号の打ち上げに先立ち、4回のテストが行われた。1回目は衛星が軌道を外れ、宇宙のどこかに飛んでいってしまった。3回目は大気圏突入の角度の失敗で炎上した。
4分の2。無事帰還する確率は半分しかなかったのだ。
「打ち上げ前、ガガーリンが出発の報告に来ました。にこにこしている彼を見て、私は何といっていいかわからなかった。人を乗せて打ち上げるには危険が大きすぎる計画だったのです。しかし手元には、米国が有人飛行計画を進めているとの情報が届いていた。負けるわけにはいかなかった」
中将は、基地司令室で無線を聞いていた。「ただいま日本上空を通過」というガガーリンの声を聞いて、司令室を出てしまった。いたたまれなくなったからだ。ひたすら「勝ってくれ、勝ってくれ」と念じていた。
ボストーク1号は地上のコントロールで飛び、飛行士に操縦の余地はなかった。「ガガーリンは坐っていただけじゃないか」との声もある。しかし、中将はきっぱりという。
「彼だったからこそ、あの危機に耐え抜いたのです。彼は鋼鉄製の神経を持っていた」
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宇宙から帰還するとガガーリンは中尉から少佐に特進していた。世界各国に招待され、忙しい日々が始まる。しかし、そうした栄誉は彼が期待していたものではなかった。そんなことより、空を飛びたかった。
大佐になった67年10月、空軍司令官あてに手紙を書く。「戦闘機訓練を受けたい。許可をほしい」
空軍は困った。彼はソユーズ計画の飛行士として、近く再び宇宙を飛ぶ予定になっていたのだ。戦闘機などに乗らず、じっとしていてほしかった。しかし、彼はしつこく申請を繰り返す。68年1月、空軍はしぶしぶ許可を出した。
68年3月27日、彼と教官が乗ったミグ15は、モスクワ東南200キロのノボショロボ上空で訓練中に失速し、きりもみ状態で雪の大地に激突した。即死。34歳だった。

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