じじぃの「人の死にざま_191_江戸川・乱歩」

江戸川乱歩 - あのひと検索 SPYSEE
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ETV 江戸川乱歩特集 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lTbqHSLibaE
[Japanese Action Movie] K-20: Legend of the Mask (2015) - K-20 怪人二十面相・伝 Full Engsub 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VQsNJUtbWLY
ETV特集 「二十の顔を持つ男〜没後50年 知られざる江戸川乱歩〜」 2015年8月1日 NHK Eテレ
【語り】リリー・フランキー 【出演】綾辻行人中村文則
日本ミステリーの巨人、江戸川乱歩(1894 - 1965)が今年、没後50年を迎えた。
1923(大正12)年、緻密な暗号解読を軸とした『二銭銅貨』でデビュー。「日本初の本格探偵小説」と絶賛された。その後も怪奇幻想小説などが人気を集め、1936(昭和11)年に執筆を始めた『怪人二十面相』シリーズは、子どもたちの間で大ブームとなった。戦後、新人ミステリー作家に贈る江戸川乱歩賞を創設するなど後進を支援し、「大乱歩」とたたえられた。しかし、そうした華やかな業績の陰で、乱歩の人生には常に秘められた苦悩と葛藤があった。
近年、乱歩が残した資料の整理分析と共に、新たな視点からの研究が進み、その知られざる姿が現れてきた。少年時代を過ごした名古屋は当時、急速な近代化が進み、孤独だった乱歩少年の心に複雑な陰影を刻み込んでいった。そして、今回初めて公開されたみずから撮影したフィルムには、乱歩の心情を映し出す映像が記録されていた。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/archive/150801.html
林先生の痛快! 「生きざま大辞典」 2014年1月2日 TBS
【MC】林修 【ゲスト】青木さやか菊地亜美北村晴男城田優中田敦彦
逆境に立ったときこそ、人間の真価が問われる! 数々の苦難を乗り越えてこそ、真の成功が得られる!
この番組では、人生のピンチを乗り切り成功を収めた先人たちや、大きな苦難&逆境を「倍返し」してきた人物の生きざまなど、近現代の偉人たちの生き方を実例をもとに紹介。
人生のヒントになるような生き方、ターニングポイントなどを解説していく。
江戸川乱歩・・・世間から全否定された小説家
林修が賢く生きるための最強のヒントを解説。書いた小説が全て世間から全否定された小説家がいた、後にその男の作品は続々と映画化していった。その小説家は「江戸川乱歩」。
乱歩は全作品発売禁止の処分を受けたことがある。その後、乱歩はあることをしてミステリー小説を救おうとした。
http://www.tbs.co.jp/program/ikizamadaijiten_20140102.html
江戸川乱歩 ウィキペディアWikipedia)より
江戸川乱歩は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。
本名は平井太郎(ひらいたろう)。筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったものである。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。
【小説】
・D坂の殺人事件 (『新青年』1925年1月) 明智小五郎、初登場作品。但し、まだ名探偵明智小五郎ではなく、素人探偵明智小五郎である。
・心理試験 (『新青年』1925年2月) 明智小五郎登場作品。
・黒手組 (『新青年』1925年3月) 明智小五郎登場作品。
・黒蜥蜴 (『日の出』1934年1月〜11月) 明智小五郎登場作品。
怪人二十面相/明智小五郎/少年探偵団 】
1936年1月から1962年12月にかけて『少年倶楽部』や『少年』に連載された少年向けの小説。少年探偵団や怪人二十面相が登場するもの。乱歩の作品を少年向けにリライトしたゴーストライターによる作品『名探偵明智小五郎文庫』他も含む。
これらは1964年から1973年にかけてポプラ社から『江戸川乱歩・少年探偵シリーズ』全46巻として刊行され、ロングセラーとなった。1998年より刊行された『江戸川乱歩・(新訂)少年探偵シリーズ』は代筆による作品を除いた全26巻(28作品)になっている。
怪人二十面相 (『少年倶楽部』1936年1月〜12月)
・少年探偵団 (『少年倶楽部』1937年1月〜12月)
・妖怪博士 (『少年倶楽部』1938年1月〜12月)
・大金塊 (『少年倶楽部』1939年1月〜1940年2月)

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サンデー毎日 2.21号
江戸川乱歩とゆく「東京怪奇散歩」 (一部抜粋しています)
乱歩は大正元(1912)年、大学入学を機に上京して以来、実に46度も住まいを変えた。名探偵・明智小五郎のデビュー作『D坂の殺人事件』では団子坂の古書店が殺人の舞台となるが、乱歩自身も同じ場所で古書店を営んでいたことがある。
その後も各地を転々とした乱歩は昭和9(1934)年、池袋のはずれにある1軒の洋風建築に移り住む。引っ越し魔だった乱歩もこの家は大いに気に入り、死去するまで30年以上住み続けた。そんな彼が特に気に入っていたのが、母屋の裏にそびえる巨大な蔵。膨大な蔵書が収められたその場所は「幻影城」と呼ばれ、創作に源泉となった。
いまなお多くの読者を魅了し続ける乱歩作品の魅力は、人気のない上野公園や群衆でにぎわう浅草花やしきなどの東京の風景を、怪奇に満ちた「異世界」として描写した点にある。そして、東京を舞台にした彼の作品群は、大都会をさまよい続けた乱歩自身の足跡でもあったといえよう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
江戸川乱歩 (1894-1965) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和37年11月28日の深夜から朝にかけて、何物かが、江戸川乱歩の知り合いの作家、翻訳家、編集者など数十人に、乱歩が危篤だという電話をかけ、寒夜みなをあわてて池袋の江戸川邸に参集させるという怪事件が起こった。
これはいたずらにしてもあまりタチのよくない偽電話であった。実際に乱歩はこのころ高血圧にパーキンソン氏病を併発して病床に臥(ふ)していたからである。
パーキンソン氏病は、中枢神経の錐体路系(すいたいろけい)に異常を起こして発生する原因不明の難病で、そのころの乱歩の症状を見て友人の大下宇陀児は書いている。
「歩くところを見ると操(あやつり)り人形の足どりだった。足が身体を運ぶのではない。上体が倒れるから足が前に出るのである。つまり上体が足を運んでいる。そうして横へ曲がると、自分一人では、すぐ転んだ。顔や頭の生傷をぼくは何回となく見ている。・・・・その状態で生き続けて、先には何があったか。時と共に全身の自由が失われる。遠慮なしにいえば、乱歩という置物がそこのあるだけのことになる」
その身体で乱歩は、乱歩賞について打ち合せの客が来ると、夫人に抱きかかえられるようにし、洋菓子をボロボロ膝の上にこぼしながら応対した。
彼は主治医の東大、中尾教授が作ってくれた幾種類かの特別な薬を、几帳面に指示通りに服用したが、決定的な治療法のない病気で、症状は徐々に悪化していた。
そして昭和40年7月27日の昼、ついに蜘蛛膜下(くもまくか)出血を起し28日には危篤状態におちいった。
作家山村正夫は記す。
「病室は庭に面した奥の8畳間だった。その床の間の前に夜具が敷かれ、先生は目を閉じてあおむけにして臥しておられた。両腕を掛蒲団から八の字に出しておられたが、各種の点滴の針が刺し込まれてそのゴム管が畳を這い、鼻には酸素吸入のチューブが絆創膏(ばんそうこう)でとめられていて、痛々しいばかりだった。しかも荒い息のために寝間着の胸が大きく波打ち、何とも苦し気な唸り声が先生の口から間断なく洩れていた。(中略)私が電話機にしがみついているあいだに、先生の終焉(しゅうえん)の時が来た。その場に居合わせた作家たちの話によると、先生は最後に大きな呼吸を1つされ、閉じておられた目をスーッと開かれた。それからまわりの人たちを一人一人たしかめるように見回して、まもなく静かに閉じられ息を引き取られたという。
主治医が臨終を告げたのは午後4時7分」
このとき、やはり臨終の座にあった角田喜久雄は、最後に乱歩が涙をぽろりと頬におとすのを見たといい、中嶋河太郎はそんなものは見たかったという。−−『D坂の殺人事件』で乱歩は明智小五郎に託していう。「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り、人間の観察や人間の記憶なんて、実にたよりないものですよ」

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