松本清張 - あのひと検索 SPYSEE
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松本清張 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本清張(まつもとせいちょう、1909年12月21日 - 1992年8月4日)は、日本の小説家。“せいちょう”はペンネームで、本名は、“きよはる”と読む。
【概略】
日本の推理小説の歴史において、「社会派推理小説」の先駆けとなった小説家の一人である。
またそれにとどまらず、司馬遼太郎などとともに、昭和中期・後期を代表する小説家の一人でもある。
1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編がベストセラーとなって以降、世に推理小説ブームを引き起こした。以後の活動により、犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」の嚆矢とされている。
推理小説以外に、『かげろう絵図』などの歴史物を手がけているが、『古代史疑』などで古代史にも興味を示し、この関心は『陸行水行』『火の路』などの小説作品にも結実した。また、『昭和史発掘』『日本の黒い霧』などのノンフィクションで現実世界にも目を向けるなど、その作家活動は多芸多才であったと言える。
現在までに470もの作品が映画化、テレビドラマ化されており、映像化によって有名になった作品も多い。
他の作品に『砂の器』『Dの複合』、自身代表作と言う『ゼロの焦点』など。
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『松本清張 あらかると』 阿刀田高/著 中央公論社 1997年発行 (一部抜粋しています)
・変化に富んだ3篇――「黒の様式Ⅱ」――
刑事事件担当の弁護士の話を聞いたことがある。
「死体というものは、死んでいるくせに意外と存在感があるものなんですね」
「そうでしょうね」
自然死や病死のことではない。殺された死体のことである。私は今日までのところまだそういう死体を自分で作ったことがないけれど、想像はつく。自分で殺したものなら、
「真実、えらいものを作ってしまった、と、気も動転するらしいですよ」
ニコリともせずに弁護士は言う。生真面目な表情を見ていると、ブラック・ユーモアのつもりではないらしい。
「わかります」
「死体は思ったより重いものなんですね。死んで目方が増えるわけじゃないでしょうけど、とにかく重い。ようやく担(かつ)げるくらい」
「はい」
人間の体の重さが、人間がぎりぎり担げる限界くらいというのは、いかなる神の摂理なのか。もっと重ければ、あるいはもっと軽ければ、犯罪しの記述は相当に変わっていたのではあるまいか。
「それに、死体はやっぱり気持ちがわるいしね。できるだけ見ないようにしているんでしょうけど、やっぱり見てしまう。いい顔はしていないでしょう。時に殺した当人に対しては」
「はい・・・」
たとえ終始同じ顔つきで、少しも変化がなくても、殺した当人には格別のものに映るだろう。
「日持ちもわるいでしょうし」
と、少し笑ったのは「気持がわるい」との語呂あわせなのだろうか。
「でもすぐに腐るわけじゃないでしょう」
「しかし、殺した当人には、すぐに匂いが感じられるんですね。それがどこまでも追いかけてくる。石鹸で洗っても、香水をかけても、フッと匂うんですね」
「なるほど」
これは怖い。そして切実なリアリティがある。逃げても逃げても死者の臭いが追いかけてくる恐怖・・・。それだけで一篇の短編小説が書けそうだ。
「とにかく犯人はみんな死体をどう始末しようか、動転しながら必死に考えるんですよ」
私ならどう考えるだろうか。
さし当たり予定はないけれど、人生にはいつ、なにが起きるかわからない。
――自動車の運転ができないからなあ――
と嘆いてしまう。考えれば考えるほど、これは殺人者にとって大きなハンディキャップではあるまいか。リヤカーで運ぶとなると、おのずと死体を運ぶ範囲がせばまる。第1、リアカーなんて、きょうび、どこ行けば貸してもらえるのか。そのうえ借りたリアカーでは足がつく。やはり自家用車が断然よい。
・
「犯罪広告」の登場人物、池浦源作は車の運転ができないのではないか。こうなると(わたしも考えたことだが)わが家の敷地内に埋めることを、まず1番先に思いつく。床板をあげ、湿った土の中に深く埋める。松本清張は車の運転ができたのかどうか。
1人の人間が消えてしまえば、それを怪しむ人がいて当然だ。しかし、その人が幼くて周囲を説得する力を持たなかったら、なんとしよう。いくら訴えても、狂気とされたら、どうしよう。「犯罪広告」の末永甚吉は、思案のすえ窮余の策を思いつく。あとは松本清張の頭の中で、ウミホタルまでまっすぐに構想が成ったのではあるまいか。自供調書の片仮名文がまことしやかで、作品のエンド・マークにふさわしい。
「弱気の虫」を読んでいると"小説とは人間を描くことだ。ミステリーも例外ではない"という、松本清張の理念が聞こえてくる。ここで扱われている事件そのものは、さほどのものではない。ミステリーとしては、むしろ構造の単純なものである。凡手ならば随分とつまらない小説にしかならないだろう。と言うより凡手ははじめからこのアイデアでは筆を執(と)るまい。
「弱気の虫」のおもしろさはストーリーではなく、むしろ主人公、川島留吉の性格にある。人間の描写にある。
――こういう奴、いるんだよなあ――
読者はしみじみと実感する。あるいは、わが心のうちに伏在する川島留吉的部分に思いをいたす。それがこの作品の第1の楽しみどころとなっている。
中央官庁の課長補佐。弱気で、敏腕とは言えない男、彼の持つ唯一の趣味が麻雀(マージャン)。自分の弱気をよく承知しているから、
――ほどほどに、ほどほどに――
と思いながら、いつのまにか深みに入り込んでしまうのがギャンブルの不思議さである。
この男の人間関係も含めて、次第に切羽詰まった状況に追い込まれていくプロセスが、この作品のスリルであり、迫力でもある。
「清張さんは麻雀をおやりになりましたか」
と、生前の清張さんと親交のあった佐野洋さんに尋ねてみた。
「若い頃は少しおやりになったんじゃないかな。ルールくらいは知っていたと思いますよ。ただ、作品の中で1度"この台詞(せりふ)、ちょっと違うな"と感じたことがあったから、それほどうまくはなかったでしょうね」という答であった。
麻雀には隠語めいた用語がたくさんあるから、いくら本で勉強しても、ちょっとした言葉遣いなどで作者が実際のプレイヤーではないことがばれてしまうケースが多い。
しかし、佐野洋さんが言っていたのは、この「弱気の虫」ではないだろう。私自身は麻雀にはたっぷりと月謝を払った体験を持つ実技者のほうだが「弱気の虫」では特に不適当な描写には遇(あ)わなかった。取材に熱心な松本清張さんのことだから、よくよくのことがない限り、知らないことでもぼろを見せることはあるまい。
ところで、この作品のモチーフだが・・・人間、弱気であるということは、それほど大きな欠点ではあるまい。欠点かもしれないが、罪を問われることではない。盗癖があるとか、酒乱だとかに比べれば、社会的に充分に許容され、むしろ同情される性格である。だが、その羊のような性格が、それゆえに犯罪の動機を作り、犯罪をそそのかし、結末もまた主人公の弱気と結びついている。はじめから最後まで、なにもかも弱気のせいであり、それが性格というものなのだ、と、世にある典型を凝視している松本清張のまなざしは確かに鋭い。性格だけでミステリーが1本書けてしまうのが、この作家の大きな特徴である。
「内海の輪」は、運命のちょっとした悪戯(いたずら)から、どんどんよくない方向へ入って行く男のドラマである。たとえば名作「坂道の家」などと同様に、松本清張がもっとも得意とする筋立てでもある。
生真面目な考古学者が、不倫の恋を続けている。
「えっ? また考古学者ですか」
なんて、それは言うまい、言うまい。考古学は松本清張の真底馴染んだ世界であり、この道の学者を登場させれば、清張は、彼を日本中どこへでも簡単に連れていくことができる。都市へいかせたいときは、そこで学会を開かせればよい。鄙(ひな)びたところならば発掘調査に赴かせればよい。ディテールまでがっちりと書きこめる。
たしかに松本清張の作品を連続的に読んでいると、
――考古学者が多いかな――
という気がしないでもない。日本中に考古学者の実数はどのくらいあるものか。私自身について言えば、年賀状を好感するくらいの親しさの中では1人もいない。すぐに頭の思い浮かぶ知人もいない。日本全国を対象にしても、それほど多い数ではあるまい。松本清張の世界は、考古学者の密度がすこぶる濃いことは確かである。
――清張さんほどの取材力があれば、もっと他の学者でもよいではないか――
と思うが、忙しさの中ではついつい馴染んだ道を選んでしまうのだろう。読者を納得させるにふさわしい、深くて確かな知識を、あらためて取材することもなく、たやすく提示できるだけ持っていると・・・つまり松本清張にとっての考古学を言うのだが、なかなか他の道は選びにくい。
「内海の輪」の主人公は生物学者でも多分同じようにこの作品は成立しただろうが、それでミステリーとして味わいが深くなるわけでもなし、やはり手慣れたところに落ちついてしまったのだろう。その気持ちは、同業の小説家としてよく理解できる。煎(せん)じ詰めれば、松本清張は考古学が好きで好きでたまらなかったのである。
が、それとはべつに、もう1つ、
「また不倫ですか」
なんて、これも「内海の輪」も読者のあいだから聞こえてくるかもしれない。清張文学においては、これもよくある。不倫となると、考古学とちがって現実にもよくある。実数は考古学者よりもはるかに多い。統計があるならば、まちがいなく考古学者よりも何十倍、何百倍も多いだろう。何千倍、何万倍と言うべきか。
しかし、これは松本清張が馴染んでいたからではない。ミステリーは犯罪がなければ始まらないし、男女の愛のもつれは多かれ少なかれ、すこぶる日常的なトラブルである。愛から始まっているだけに、普通の人が落ちいりやすい陥穽(かんせい)でもある。"花がある"という表現は語弊があろうけれど、小説に向いていることにはまちがいがない。
「私が好きなんじゃなく、皆さんがこのテーマが好きだからですよ」
と、松本清張は下唇を突き出して呟くのではあるまいか。
たしかに「内海の輪」の宗三と美奈子が交わす不倫はどこにでも転がっていそうなものである。
ただ、この不倫には暗い影がある。遠くから警鐘を鳴らして少しずつ近づいてくるものがある。2人のそもそもの関係が兄嫁と弟。これからして尋常ではない。
小説の中に登場する男女を、どういうきっかけで知り合わせ、どんなふうに愛を深めさせていくか、読者はあまり意識しないだろうけれど、作者のほうはいろいろと考えるものだ。公園のベンチに男がすわっていて、その前を若い女が通りかかり、ハンカチがパラリと落ちて、
「あの、落ちましたよ」
と男が追いかける。
「あら、すみません」
「イヴ・サンローランですね」
「はい、私、好きなんです」
「僕も好きです」
これが2人のなれそめであった・・・と書こうものなら、編集者に、
「50年前の手を使わないでください」
と、顰蹙(ひんしゅく)をかうことはまちがいない。
「内海の輪」の出会いは、ちょっとした趣向といったトーンを越えて、これから始まる男女関係をじんわりと無気味に暗示していて、迫力がある。ありていに言えば、こういうことで始まった2人の関係だから、
――結末もこんなふうになるんだよなあ――
と、小説のモチーフにふさわしい説得力が感じられてくる。
――いざとなると、女のほうが度胸がいいものらしいな――
と、これは論証のむつかしいテーゼではあろうけれど、小説の中では、これも充分な説得力を持っている。
そして、もう1つ、冒頭に出てくるタクシーの運転手については、そこを読んだとたんに、
――ああ、この男は、2人の関係を特定する証人になるぞ――
と見当をつけた。そして結果もその通りになった。
下手をすると興ざめになりかねない伏線だが、それを救っているのは、
――こういう偶然、世の中にあるんだよなあ――
そう思わせる筆力だろう。と言うより、日常さまざまなところに観察の目を配っている松本清張の眼力の賜物(たまもの)だろう。タクシーに乗る時とき客は運転手を見ていないが、運転手は客をよく見ている。私事ではあるけれど、十数年前、五反田に住んでいた頃、銀座でタクシーに乗り、
「五反田」
とだけ告げ、その後、ほかの思案にふけってしまった。これ以外なにも言わなかったのに1号線からわが家のある細道へ車が曲って入り、
「えっ?」
と驚けば、
「前にお乗せしました」
とのこと。ますます驚いてしまった。
まして「内海の輪」のように、訳ありの男女が乗り込み、運転手自身が東京に来て間もない立場であったなら、乗客をよく覚えているということもありうる。天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして漏らさず、という結末なのだろうか。
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