じじぃの「人の死にざま_179_ショーペンハウアー」

アルトゥル・ショーペンハウアー - あのひと検索 SPYSEE
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IMMORTALITY: A DIALOGUE - Arthur Schopenhauer 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mYfXWJwx1Nc
アルトゥル・ショーペンハウアー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アルトゥル・ショーペンハウアーは、ドイツの哲学者。世界は自己の表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志であるとした。主著は『意志と表象としての世界』。
【その他】
ショーペンハウアーは卓越した表現力と幅広い教養の持ち主であった。彼の哲学説は芸術論・自殺論が有名であるが、実際は法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学である。主著の序論「根拠律の四つの根について」、主著「意志と表象としての世界正編」「カント哲学の批判」のほかには、壮年期の「続編」「自然における意志について」「倫理学の二つの根本問題」、晩年の「余録と補遺」がある。
カントの後継者を自任したショーペンハウアーは、ヘーゲルに強力な批判を加え、「私はカントから私までのあいだに、哲学上何事かがなされたと認めることはできない」と語っている。
意志を直接に表現した時間の芸術たる音楽では、ロッシーニを終生愛した。ショーペンハウアーを熱烈に敬愛したヴァーグナーに対しては「音楽家というよりは詩人としての才能がある」という微妙な言葉を残した。
知性よりは意志を強調したその哲学は、後年の生の哲学実存主義のはしりと見ることもできる。終生独身を通し、また無神論者でもあった。
他に彼は翻訳に対しても厳しい批判を加えている。彼が翻訳で読んでいたのは、七十人訳聖書とウパニシャッドくらいである。しかし七十人訳聖書はギリシア語で読んでいた。ほかに、他人の書物だけを論じているものも、彼は嫌っていた。
A・W・シュレーゲルの言葉は生涯、彼から離れなかった。プラトンに対しては、「神の様」という言葉を残している。

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『賢者たちの人生論 プラトンゲーテからアインシュタインまで』 金森誠也/著 PHP文庫 2009年発行
ショーペンハウアー (一部抜粋しています)
ショーペンハウアーは、近代社会における人間の苦悩をとくに重く見ている。彼によれば近代人の享受するかりそめの快楽などたかが知れており、ほとんど満足は得られない。何しろ人間は1つの欲望が達せられても、他にいくつも満足されない欲望に駆られるからだ。それに欲望の充足といっても、それは見せかけのもので、1つの欲望が達せられても、すぐにまた新しい欲望が顔を出す。それに快楽のあとの退屈は始末におえない。本節のはじめの彼の言葉にあるように、苦しみをすべて地獄の中にほうり込んで消去したとしても、天国に残ったのは退屈ばかり、しかも退屈退治は苦痛の除去以上に困難である。ショーペンハウアーは「退屈はほうっておくと、しまいにはそれは感じている人間の顔に絶望の表情があらわれる」とのべている。さらに彼は次のように喝破(かっぱ)する。
「他のすべての害毒に対抗するのと同様、退屈退治のためローマ帝国の大競技場コロセウムのような公共の施設が国策に見地からもつくり出されるようになった。それというのもこの退屈という害悪は、それとは全く対照的な害悪である飢餓と同様、人間を最大の無法状態にまで駆り立てるからだ。人集はパンと曲芸(サーカス)を必要とするのだ」
パンとサーカスという言葉をもう少しくわしくのべると、古代ローマでは「小麦法」というものがあった。首都在住のローマ市民県保持者に対し、1人あたり1月に、およそ30キログラムの小麦を無料で配給するという制度であった。その対象になった市民はカエサルのとき15万人、アウグストゥスのときは20万人などといわれている。これらのローマ市民はもらった小麦に野菜やチーズを入れて煮込むか、あるいは粉にしてパン屋で焼いてもらうかして食べたが、要するにパン(食物)の心配がなく毎日暮らせたわけだ。そこで次は退屈退治だが、このためにローマの政治家はコロセウムに市民を集め、剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣の殺し合いを見物させて、彼らが退屈のあまり暴動を起こさないように努めた。
日本を含め現代の政治家たちも、古代ろーまのように無料給付というわけにはいかないにしても、とにかくパンとサーカスをなんらかの形で一般市民に与える政策をたえず考えている。国民一律の給付金、食品輸入の多様化、オリンピックはじめスポーツの振興などはそのほんの一例である。一方一般市民もそれぞれパンとサーカス両者の確保に努力している。しかもお間の日本ではホームレスはじめ飢えに泣いている人が大勢いるし、その反面、暇をもてあましている青少年は増える一方である。
それでいて結婚できない者が多い。2005年の日本の国勢調査によれば、30〜34歳の未婚率は男性47.7%、女性32.6%で、いずれも10年前よりも10%前後増えている。しかもフリーターのような非正社員男性の結婚率は正社員のおよそ半分だという。
いずれにしてもショーペンハウアーの「民衆はパンとサーカスを必要とするのだ」という言葉は正しいであろう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ショーペンハウアー (1788-1860) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
カントを尊敬する彼は、カントと同様、日常生活は完全に規律正しく、健康に注意した。
朝は7時と8時との間で起床して、大きなスポンジを使って冷水摩擦し、眼をあけたまま顔を水にひたして洗眼した。そして、自分でコーピーをいれてベッドで朝食をとり、午前中は著作に専念した。昼は町のレストランで食事をしたが(彼は生涯独身であった)甚だ健啖(けんたん)であった。そのあと帰宅して1時間ほど午睡し、さめたあと読書し、夕方になると犬を連れて、住んでいるフランクフルト・アム・マインの郊外を散歩した。夜の8時と9時の間にまたレストランに出かけて冷たい肉料理と半𦹀の赤のワインをとるのを常とした。帰宅後1時間ほど読書してベッドについた。睡眠時間はふつうの人よりたっぷりとった。
これが「厭世哲学」で知られるショーペンハウアーの判で押したような晩年の生活であった。
カントにならった彼は、しかしカントよりはるかに壮健な肉体を持っていること自負していて、実際最後の年まで足取りはしゃんとしていたが、その1860年の4月のある日、昼食のレストランから帰る途中、はじめて呼吸困難と心臓の異常な動悸を感じた。そしてこの現象がその後もいくどか起るようになった。
8月のある朝、起床後、突然狭心症の発作に襲われ、窒息状態におちいったが、医者が来たときは平常に戻っていた。医者は薬を置いていったが、もともと薬を不自然なものとする信条を持っていたショーペンハウアーは、ついにそれを服用しようとはしなかった。冷水摩擦や散歩の習慣をやめようとはしなかった。
9月上旬、肺炎を引き起こしていることが明らかになったが、すぐに回復したように見えた。しかし9月18日、起床後また心臓発作が来た。が、午後見舞いに来た親近者のヴィルヘルム・グヴィナーが、万一の場合死後解剖を受ける意志があるかと訊くと、ショーペンハウアーは少し考えてから答えた。
「だれも、生まれる前の私について何も知っていないのだから、死んだあとの私についても、何も知らなくていいだろう」
その眼には、病気はおろか老年のしるしさえ見えなかった。
9月21日の朝、ショーペンハウアーは、起床後いつものように冷水摩擦をやり、ベッドでコーヒーを飲んだ。やってきた家政婦が窓をあけて朝の空気を部屋にいれて立ち去った。そこへ往診の医者が訪れた。家政婦が医者を案内して戻って来ると、ショーペンハウアーはソファによりかかったまま、顔を仰向けにして息絶えていた。

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