じじぃの「人の死にざま_175_三島・由紀夫」

三島由紀夫 - あのひと検索 SPYSEE
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1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=hkM_1LX4hDI
知の巨人たち 第7回 三島由紀夫 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-u7TxapTwH4
三島由紀夫 ウィキペディアWikipedia)より
三島由紀夫は、小説家・劇作家。戦後日本文学を代表する作家の一人である。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼民族派に多大な影響を及ぼした。
代表作は小説に仮面の告白』、『禁色』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。批評家が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた(三島事件)。
金閣寺放火事件 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
【事件の概要】
1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報。消防隊が駆けつけた時には、既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなく、46坪の建築物が全焼した。
鎮火後現場検証したところ、普段火の気がないこと、そして寝具が何故か付近に置かれていることから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べたところ、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(京都府舞鶴市出身・当時21歳)がいないことが判明し行方を捜索した。夕方になり金閣寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていた林を発見し、放火の容疑で逮捕した。
【動機】
その後、林は救命処置で助かった。逮捕当初動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などと供述した。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音であること、実家の母から過大な期待を寄せられていること、同寺が観光客の参観料で運営されており、僧侶よりも事務方の方が幅を利かせるなどの現実から、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていた。
そのためこの複雑な感情を解き明かそうとして後述のような文学作品が創作された。これらの中で三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したが、実際のところ真相は解き明かされることはなかった。
【その後の経過】
事件後、彼の母親は京都府警の事情聴取のため京都に呼び出されたが(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核で病死)、捜査官から事件の顛末(てんまつ)を聞かされて衝撃を受け、不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。だが母親は実家がある大江(現在の京都府福知山市大江町)への帰途、山陰本線の列車から京都府亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。1950年12月28日京都地裁は林に対し懲役7年を言い渡した。林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院に精神科を設立、医長となる加藤清である。
しかし服役中に結核と重度の精神障害が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院したが1956年3月7日に病死した。親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。
【この事件をテーマにした作品】
この事件を題材に、長編小説では三島由紀夫金閣寺』や、水上勉『五番町夕霧楼』が書かれた(各新潮文庫)。
水上勉舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている。 事件に強い衝撃を受けた水上は、この事件を題材に各方面に取材を重ね、1979年にノンフィクション『金閣炎上』(新潮社)を出した。舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いた。現在でも「金閣炎上」は、事件の経緯を知るための一次史料となっている。

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三島由紀夫」とはなにものだったのか  橋本治/著 新潮社 2002年発行
松本清張を拒絶する三島由紀夫−−あるいは、私有される現実 (一部抜粋しています)
数年前に、中央公論社の社長だった人から不思議な話を聞いた。その昔、中央公論社で『日本の文学』という全集を出そうとした時、中央公論社側には「松本清張集」という1巻を立てたいという希望があったのだそうだ。ところが、編集委員だった三島由紀夫が「絶対にだめ!」という反対をして、それが出来なかったというのである。
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三島由紀夫がなぜ松本清張を拒絶するのかが分からないのは、普通、松本清張三島由紀夫を1対のものとして考えないからからである。三島由紀夫太宰治に対して、「あなたの文学は嫌いです」と言ってしまったというのは有名な話だが、それは分かる。三島由紀夫は、太宰治の「意志のなさ」がいやなのだ。しかし、その太宰治は、三島由紀夫編集委員になっていた『日本の文学』に、ちゃんと1巻を与えられている。三島由紀夫は、なぜ松本清張を拒絶するのだろう?
ある作家が別の作家を意味不明な理由で嫌う場合、その理由が「嫉妬」である確率は非常に高い。それで私は、「三島由紀夫松本清張を嫉妬したのだろう」と思うのだが、そんなことになったら、ますますその理由が分からない−−そうなるのが普通だろう。三島由紀夫の文学と松本清張の文学は、おそらく、ありとあらゆる意味で重ならない。すなわち、「嫉妬」などというものは成り立ちようがない。しかし、三島由紀夫松本清張を拒絶したのである。三島由紀夫松本清張の共通点はどこにあるのか? 私は1つだけあるのだと思う。
金閣寺』は、現実の事件に取材したものである。そうした作品が、三島由紀夫の中にはいくつもある。『青の時代』や『宴のあと』や『絹と明察』である。『鏡子の家』は、1時期が外国人タレントとして有名だったロイ・ジェームスの家が舞台となっているのだそうである。中央公論社の社長だった人は、その以前ロイ・ジェームスに会った時、「鏡子の亭主です」という自己紹介をされて面食らったそうである。それは、健全タレントの家を「耽美の家」として設定してしまうようなものであろうか。『複雑な彼』の「背中に彫り物を入れたパイロット」のモデルが、若き日の阿部譲二であることは有名である。もう1つ、唐突を承知で言ってしまえば、私は『禁色』の檜俊輔のモデルは、川端康成だと思った。15の年にそれを読んだとき、私は前後の脈絡抜きで、「川端康成がモデルなんだろう」と思った。その確信は、今でも変わらない。この確信は、愛弟子・三島由紀夫の死後「政治」に目覚めた川端康成が、突然「都知事選の応援演説」などという"愚行"を演じ、その後、まるでそのことを恥じるようにガス自殺してしまったことで立証されたようなものである−−と、私は1人で勝手に思っている。
川端康成はともかくとして、三島由紀夫は、「現実の事件を題材にする作家」なのである。そして松本清張は、言わずしれた「現実の事件を題材にする作家」である−−その方向は180度違うが。松本清張は、現実の事件を事件を題材にして「真実はこうだ」と展開する作家である。三島由紀夫は、そんなことをしない。現実の事件を逆立ちさせて、完全に「自分の世界」を幻出させてしまう作家である。『金閣寺』は、その典型だろう。
数年前、私は『ひらがな日本美術史』という本の2冊目を出した。日本美術史の本で、果敢暗時代と室町時代をその範囲にする。そこで、室町時代の建築として金閣寺を取り上げた。元の原稿は、雑誌に連載されていたものである。雑誌掲載の時、その原稿の横にはちゃんと金閣寺の写真があった。単行本になった時、そこの金閣寺の写真はなかった。金閣寺側から掲載を拒否されたのである。理由は、わたしが書いた原稿の中に、三島由紀夫の『金閣寺』が登場するからである。雑誌掲載の時は、そのことを知らなかったらしい。しかし、単行本掲載の時点で拒否された。「三島由紀夫金閣寺にとってタブーであるから、三島由紀夫がそこにある以上、写真の掲載は許可出来ない」ということを、いたって遠回しに言われたと、私は敦党編集者から聞いた。
ここからは、私の勝手な推測である。
一読すれば分かるが、 三島由紀夫の『金閣寺』は、現実の金閣寺とはまったく関係がない。更に言ってしまえば、三島由紀夫の『金閣寺』という小説は、現実に起こった金閣寺の放火炎上事件とさえも関係がない。三島由紀夫にすれば、それは「捨象した」ということになるだろうが、三島由紀夫は、現実に起こった事件の枠組みだけを使って、「自分の小説」を創ったのである。三島由紀夫にしてみれば、「ここまで現実と違う小説を構築した腕は素晴らしいだろう」と言いたいようなものではないか。それは、「芸術の自立」でもある。がしかし、そうなってしまったら、それはなにも金閣寺である必要がない。犯人の少年にあった「吃音障害」という身的特徴も、別のものに置き換えられていいようなものである。がしかし、三島由紀夫はそれをしない。三島由紀夫の仕事は、「現実と同じ材料を使って、現実とは全然違うものを作る」だからである。
そのようにして、三島由紀夫は、現実から"芸術"を浮上させたかったのだろうが、しかしそれは、現実の側からすれば、「あまりにも思いやりのない仕打ち」にもなる。三島由紀夫を「タブー」としてしまう金閣寺側の真理は、そんなものではないかと、私は勝手に想像してしまうのである。
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三島由紀夫は、現実を自分の中に引き入れて、自分の現実を変えるような人ではない。それは、三島由紀夫と同時代に生きた多くの男達も同じだったろうと思う。だから、その時代に若者だった人間は、「僕たちが通り過ぎたのはへんな時代だったんだよ」などとも言う。そして、≪この堅固な世界を不定型の裡へ巻き込まねばならない。≫が三島由紀夫にとって当たり前の主張であるのだとしたら、三島由紀夫は、現実の事件を決して自分の現実の中に引き入れない。つまり『金閣寺』を書く三島由紀夫は、金閣寺放火炎上事件を自分に引き寄せ、自分の掌に載せるのではなく、現実の金閣寺に−−あたかもそれを爆撃するように、自分を投下して(濁点あり)しまうのである。≪この堅固な世界を不定型の裡へ巻き込まねばならない。≫とは、そういうことである。そして、三島由紀夫に爆撃され降下されてしまった金閣寺は、もう「三島由紀夫のもの」なのである。松本清張三島由紀夫の違いは分かるだろう。
松本清張は、現実の事件を自分の手元に引き寄せる。自分の掌の中で、自分自身の推理によって、もう一度再構築する。松本清張は、三島由紀夫よりずっと事件に近寄って、しかし、事件とは遠いところで再構築をする。一方三島由紀夫は、事件から遥かに遠いところにいて、そのくせ、事件のど真ん中に乗り込んで、そこで再構築を始めてしまうのである。出来上がったものは、どちらも「よく出来たお話」である。どちらが現実に近いかは、はっきりしている。もちろん、松本清張三島由紀夫も、「どちらが現実に近いか」などと考えず、「どちらが真実に近いか」という考え方をするだろうが。
松本清張は、三島由紀夫の「地位」に嫉妬をしたとしても、作品なんかに嫉妬はしないだろう。「やることが違う」と、松本清張なら割り切れる。だから「どうして三島由紀夫松本清張を否定するんだろう、不思議だな」と思う我々は、三島由紀夫の側ではなく、松本清張の側に立って考えているのである。三島由紀夫の側に立ったら、松本清張の作品は、どのように見えるのか? おそらく、「大人の小説」のように見えるだろう。そして、自分の小説は、「子供のようなこじつけ小説」に見えてしまうだろう。私には、三島由紀夫松本清張を拒絶する理由が、なんとなく分かるような気がする。
三島由紀夫はどこかで、自分の作品、そして自分の人生が、観念だけで作られた細工物のようだと感じていたのである。だからこそ、それを「観念ではないぞ!」と言えるところまで、周到にして綿密な論理で埋めて行ったのである。その行為そのものが、彼の感じた原初の不安を裏書きするものであることも知らずに。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
三島由紀夫 (1925-1970) 45歳で死亡。
「ある晩、8時半か9時ごろだったか三島さんがやってきた」
数寄屋橋のレストラン「四季」の料理長志度藤雄はいう。
「いつもは奥さんや子供さんが一緒のこともあって、来ると決まって『やあ、志度君』と気さくなのだが、そのときは若い男の人と2人連れで、『やあ、今晩は』と、どことなく元気がなくて顔色もさえなかった。
『先生、だぶ疲れてますね』
と言うと、
『そうかね』
と、小さな声だった。ふだんは明るい人で、よく世間話をしてたのに、その晩に限ってむっつりしておった」(志度藤雄『一料理人として』)
その翌日の昭和45年11月25日午前11時ごろ、三島と「楯の会」の青年4人は、東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室にはいり、陸将益田兼利と雑談し、三島は携行した日本刀、関の孫六をみせたりしていたが、突然部下と共に益田に襲いかかって、ロープで椅子にくくりつけ、その物音を聞いて駆けつけた自衛隊の将校数名に、日本刀をふるって斬りつけ、追い返した。
それから三島は、所在の自衛隊員らを前庭に集めることを命じ、午後零時ごろから、みずからバルコニーに出て檄文をまきちらし、演説をはじめた。
「・・・・自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへいったのだ。自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるのか。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」
しかし、前庭に集められた約800人の自衛隊員には蛙のつらに水で、彼らはただあっけにとられ。かえって弥次を飛ばす始末であった。10分間ばかりで三島は演説をやめた。
「今こそわれわれは、生命尊重以上の価値の所在を、諸君の眼に見せてやる。天皇陛下万歳
といいすてて、彼は総監室に戻り、制服の上衣をぬぎ、正座して、短刀を両手に持ち、気合いをいれて左脇腹に突き刺した。
隊員の森田必勝が介錯(かいしゃく)したが、3太刀斬りつけてうまくゆかず、苦痛のために三島は下を噛み出した。別の隊員古賀正義が、代わって三島の頭部を斬り落とした。ついで森田が割腹し、古賀がただ1太刀で介錯した。
三島の辞世「散るをいとう世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜(さよ)嵐」
彼は、彼の美学によって自分の死を創作した。それこそが彼の目的であったと思われる。
「あの自衛隊に乗り込む前の晩で、一緒に来た若い人は、三島さんの首を斬った人だった」
と、志度はつづける。
「三島さんが、どういうつもりであの晩わたしのところに食べに来たのかは、もちろんわたしにはわからない。しかし、あの晩のどこか疲れ果てたような表情は、いまでも強く印象に残っている」

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三島由紀夫の言葉
「日本はなくなり、無機的なからっぽな国が残る」

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