じじぃの「人の死にざま_170_太宰」

太宰治 - あのひと検索 SPYSEE
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走れメロス "Run, Melos!" 1/11 動画 YouTube
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太宰治 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
太宰治は、昭和を代表する日本の小説家。本名は津島修治(つしましゅうじ)。
1933年(昭和8年)より小説の発表を始め、1935年(昭和10年)に「逆行」が第1回芥川賞候補となる。主な作品に走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格など。諧謔的、破滅的な作風で、織田作之助坂口安吾石川淳などともに新戯作派、無頼派とも称された。大学時代より自殺未遂、心中未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)玉川上水にて山崎富栄とともに入水した。

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日本史有名人 [おやじの背中]  新人物往来社/著 新人物文庫 2009年発行
太宰治 財力・権力・名誉すべてを手にした父 津島源右衛門 (一部抜粋しています)
治3歳の明治45年、県会議員の父が衆議院議員に当選し、津島家の最盛期を迎える。この頃に通称「津惣(つそう)」を「源右衛門」の「源」の字から「山源(やまげん) ∧源(やまげん)」の屋号を考案した。「山源」は、いわば、「権力の象徴」でもある。この衆議院議員も、一期つとめただけで政界を引退。納税額の数倍かかる選挙資金が割に合わなかったのである。合理的な考え方をする人であった。
大正11年(1922)12月、源右衛門は補欠選挙貴族院に当選する。貴族院になる資格は、基本的には貴族であることが条件だが、それ以外は、国家に勲労と学識が認められた勅撰議員(北里柴三郎など)と、多額納税議員とがあった。源右衛門は多額納税枠での当選である。名誉を得たわけである。
同年暮れに、源右衛門は年明けの議会開院式に備えて上京したが、突然病床につき、3月4日、神田小川町佐野病院で歿す。肺ガンであったらしい。享年52歳であった。号外が出て、金木の葬儀には1000名を越える会葬者が募ったという。家督早大を前日の3日に卒業したばかりの長兄文治(当時25歳)が継いだ。以後文治は県会議員となり、津島家は安泰を確認する。
このように、52歳で逝去したものの、津島家の莫大な財力、議員という権力、貴族院議員という名誉すべてを得たのが、津島源右衛門であった。
太宰治は生家を嫌悪し、否定的なこともしばしば述べている。父についても、「恐い人」、「いまでもいやな気がする」、家系については「私の生まれた家には、誇るべき系図も何も無い」(『苦悩の年鑑』)と述べている。太宰が、その「家」=「家系」「強い父」に与えた打撃、すなわちその放蕩無頼は目に余るものがある。自殺未遂、心中事件を繰り返し、義絶されても仕送りを受け続けて、生活の安定を得ていた。
太宰を経済的にも精神的にも支えていたのは生家「山源」であった。父の権力の象徴である。太宰治の文学は、ナルシズムと選民意識、それに対する強い嫌悪と否定であるとも言われている。その根底には、「権力を持った父源右衛門」が深い影を落としていることは否定できない。 (岡田博子)

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
太宰治 (1909-1948) 39歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和22年『斜陽』を発表して一躍文名を高めた太宰治は、「選ばれたものの恍惚と不安」の中に、残る生命を酒と遊蕩に浪費していた。彼はみずからにいいきかせた。
「地獄の思いで遊んでいる。いのちを賭けて遊んでいる」
しかし、昭和23年の2月29日、毎日新聞経済部長平岡敏夫−−太宰と弘前高校時代の友人−−とともに、太宰の三鷹の仕事場を訪ねた学芸部副部長古谷綱正は書いている。
「やがて平岡氏が彼の健康に尋ねた。
『よくはないんだよ。この間また喀血をやっちゃってね。酒でもっているんだよ。酒飲むと元気が出てくるんだよ』
そういいながら、しかし何かものうげであった。それは精神の倦怠よりも、身体からくるへだるさに見えた」
その場で痛飲して、古谷は太宰にからんだが、意外にも太宰は怒らず、おとなしくそれをあしらった。古谷はいう。
「作品の中に出て来る酔態は、いわば太宰の理想像であって、本人はとてもそこまで羽目をはずしそうもない。ハメをはずした無惨な生き方に徹しようとしてそれも出来ず、世間から放蕩無頼と思われ、その世評にこたえようとして成らず、ついにヴィヨンになりそこねたこの作家は、自分で自分の独り相撲に負けて死んで行かねばならなかったのではなかろうか」
「常識人」古谷綱正の解釈である。
そのとき、太宰の愛人山崎富栄も同席していた。山崎富栄は、1年前、太宰と屋台のうどん屋で知り合った。いまは三鷹の美容院に勤めている戦争未亡人で、この昭和23年、30歳であった。
3月に太宰は、『人間失格』を書いた。彼はいう。「ぼくの作品は残り少なくなった絵具のチューブを、無理に絞(しぼ)り出すようなものだ」
5月15日から、彼は「朝日新聞」に新連載する予定の『グッド・バイ』を書きはじめ、下旬に10回分を渡したが、このころ不眠症と喀血で、彼の身体はもう生きるにたえられない状態にあった。
「修治さん(太宰の本名)は肺結核で左の胸に2度目の水が溜り、このごろでは痛い痛いと仰言(おっしゃ)るの。もうだめなのです」
と、富栄は、のちに発見された『愛は死と共に』と名づけられた手記に書いている。
「五月雨(さみだれ)が、今日もかなしく、寂しく降っています。『死のうとおもっていた−−』とお話したら、ひどく叱られた。『ひとりで死ぬなんて? 一緒にゆくよ』」
太宰は、昭和4年弘前高校時代、カルモチン自殺を計って未遂に終り、銀座のバーの女給と江の島で心中を計って彼だけ助かり、10年、鎌倉の山中で縊死(いし)を企ててまた失敗、さらに当時の内縁の妻と水上温泉でカルモチン自殺を計ったがこれまた未遂に終るという「死に憑(つ)かれた男」の前歴があった。
そして山崎富栄は、太宰のどんなわがままにもうなずいて、すぐにその用を足すために駈け出すので「スタコラサッチャン」(当時のある漫画の題名)と呼ばれるような温順な女であった。肉体的にも精神的にも、死へ急ぎつつある太宰に、この女性の母性本能は燃えあがったかに思われる。
太宰の妻美知子は語る。
「何時ものように、『仕事部屋に行ってくるよ』といって、気軽に家を出たのは6月6日の朝でした。それからずっと1週間程かえられませんでしたが、朝日新聞に連載が新しくはじまるので、お仕事もそれだけに捗(はかど)っていることだろうと思って、私は3人の子供相手に忙しく過ごしておりました。丁度1週間目の14日の朝、朝日の学芸部長が宅に見えて、『今日お会いする約束になっていたけれど仕事部屋に見えないから、お宅の方じゃないかと思っておたずねしました』とのこと。私は変な予感にふと胸がさわいで、どうされたのかしらと心配しておりますうち、お向かいの山崎さんのお部屋から遺書さしいものが発見されたというしらせでした」
太宰と山崎富栄が失踪したのは、6月13日のことであった。
富栄の部屋には、本棚に2人の写真と、ワラビはゼンマイの芽のような、また両手を下げて水中に立った男女の姿のような、ぶきみな絵が飾られ、線香に水まで供えてあった。
あとに残された山崎の遺書には「・・・・御家庭を持っていらっしゃるお方で、私も考えましたけれども、女として生き女として死にとうございました。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸(しあわせ)にしてみせます」とあり、太宰が友人の伊馬春部に残した遺書には、
「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる」
という伊藤左千夫の歌が記されてあり、また美知子夫人宛ての遺書には、
「・・・・永居するだけ、皆をくるしめ、こちらもくるしく、かんにんしてくだされし。子供は凡人にてもお叱りなさるまじく。(中略)あなたを、きらいになったから、死ぬのでは無いのです。小説を書くのが、いやになったからです。みんな、いやしい、欲張りばかり。井伏さんは悪人です」
とあった。
友人たちは、2人が玉川上水に入水(じゅすい)したことを直感し、一帯を捜索したが発見されず、いちじは、以前太宰が、自殺したふりをして、友人や批評家の死後の悪口を聞きたいものだ、と冗談をいったのを実験しているのかも知れない、とさえ考えた。
6月19日の早朝、玉川上水明星学園傍の杭(くい)に男女の死体があがった。
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この弱気なエゴイストは、しかし文学の衣装をまとうことによって、「桜桃忌」に毎年おびたたしい若者を集めるという、他の作家には見られない魔力を発揮した。

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【次代への名言】6月13日・太宰治 2009.6.13 MSN産経ニュース
「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」太宰治
『斜陽』や『人間失格』を発表し、人気の絶頂にあった太宰治が昭和23(1948)年のきょう夜、失踪(しっそう)した。39度目の誕生日で、いまは彼を偲(しの)ぶ桜桃忌(おうとうき)にあたる6日後の19日、東京・三鷹玉川上水で愛人とともに遺体が見つかった。
妻への遺書には、「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」とあった。作家としての「遺書」は最晩年の随筆『如是我聞(にょぜがもん)』だろう。こんな一節がある。≪世の中から、追ひ出されてもよし、いのちがけで事を行ふは罪なりや。(中略)最後に問ふ。弱さ、苦悩は罪なりや≫
しかし、太宰にはまた別の顔もある。最初の心中未遂をテーマに、25歳にして恐るべき小説技術の持ち主であることを示した『道化の華』、空襲警報の下でつづった『お伽(とぎ)草紙』、そして故郷で「母」にめぐり会う『津軽』。共通するのはぬくもりと、「道化の精神」である。だから、あえて『津軽』の結びを冒頭においた。そして彼が同じ顔を見せた遺稿の引用で、きょうの小欄を終わりたい。
≪「グッド・バイ。」
とささやき、その聲が自分でも意外に思つたくらゐ、いたはるやうな、あやまるやうな、優しい、哀調に似たものを帯びてゐた。≫(『グッド・バイ』)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090613/acd0906130301002-n1.htm
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