じじぃの「人の死にざま_165_小栗・忠」

小栗忠順 - あのひと検索 SPYSEE
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小栗忠順 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
小栗忠順おぐりただまさ)は、江戸時代末期の幕臣
通称は、又一(任官前)。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。のち文久3年(1863年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任。小栗上野介とも称される(吉良義央以降、上野介を名乗ったのは小栗のみである)。新潟奉行・小栗忠高(小栗氏の当主)の子、生母はくに子。
【概要】
安政6年(1859年)に目付。万延元年(1860年)、34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。その後勘定奉行軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国群馬県群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備の日々を送った。同年、薩長軍に逮捕。翌日烏川のほとりで斬首。

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文藝春秋 10月号
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会 (一部抜粋しています)
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
惜しまれる小栗忠順の才
半藤 悲運の幕臣といえば、小栗忠順を挙げないわけにいきません。小説ではありませんが、『「明治」という国家』で、司馬さんは小栗の功績に詳しく触れています。 小栗は封建制をやめ郡県制にし、江戸幕府を名実ともに中央政権とする大改革案を持っていました。つまり江戸幕府を寝台国家に作り変えようとした。そのためには近代的な海軍が要るというので、小栗は一大プロジェクトに着手します。それは横須賀に世界レベルの製鉄所、鉄工所、造船所を建設することでした。この小栗が造った横須賀ドッグがあればこそ、明治の山本権兵衛は近代的な日本海軍を建設することが可能だった。逆に言えば、小栗なかりせば、日本海軍の勝利もなかったかもしれません。 小栗ばかりではない、日露戦争直前の明治の海軍には静岡県出身、つまり旧幕臣の中将が8人いました。彼らはみな海軍の主流である兵科ではなく、機関科、造船科といった技術畑でした。旧幕臣の知識、技術力が、明治海軍の軍事力を根底で支えたのです。
山内 実は、小栗は海軍による海上封鎖など薩長軍を撃破するプランもちゃんと持っていたんですね。しかし、肝心の慶喜が敗北主義でどうしようもない。後に大村益次郎は「小栗の案どおり幕府が戦っていたら、どうなったかわからない」と述べています。潔く上州権田村の領地に帰って隠居していた小栗を、討幕軍は言い分も聞かず、切腹すら認めずに、いきなり斬首刑にしてしまった。このあたりの成り上がりには"武士は相身互い"というセンスがない。
水木 私は小栗の旧領地の近くに、小さな山小屋を持っているのですが、今でも地元の人々の小栗人気は大変なものですね。あちこちに小栗の碑が立っていて、彼が首を斬られたところには、ちゃんと祠(ほこら)があります。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
小栗上野介おぐりこうずけのすけ) (1827-1868) 41歳で死亡。 (一部抜粋しています)
幕末に横須賀に造船所を建設し、ある人が幕府の命脈のつきんとしていることをいうと、「土蔵つきの売家をあとに残すのも面白いではないか」といい、また「どうにかなろう、幕府を滅ぼしたのはこの一言だ!」ともいった幕府軍艦奉行小栗上野介忠順は、勝安房とは対照的に、徹底抗戦を主張したが、明治元年、もはや大事は去ったとついにあきらめ、江戸を去って、3月1日から、知行所(ちぎょうしょ)の上野(こうずけの)国権田村の東善寺という寺にひきこもったが、閏(うるう)4月6日、官軍のために鳥(からす)川の河原に、家来3人とともにひきずり出され、斬首された。
その直前、食事を与えたが、小栗は箸をとらなかった。いい残すことはないか、と訊いたのに対し、何もない、と答えたが、ただ、母と妻は越後のほうに逃したが、御寛典(かんてん)を願う、といった。
22歳の隊長原保太郎は、刀をとって背後に立ったが、どうも斬りにくいので、棒でその腰をついて、「もっと首を下げろ」と、いった。すると上野介は凄じい顔色でふりむいて、「無礼者」とさけんだ。
腹の刀はふり下ろされた。一太刀ではうまくゆかず、三太刀目で首を切り離した。
この処刑は出先の一隊長原保太郎らの独断によるもので、余談だが、この粗暴な隊長原は、のちの内務官僚になり、貴族院議員となり、昭和11年、89歳をもって極楽往生をとげたが、明治44年4月、当時府立一中にはいったものの学資がつづかず苦しんでいた谷崎潤一郎父子に助力を頼まれたことがある。

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次回の知ってるつもり?!
2000/5/7 放送 「小栗上野介
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000507.html
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