じじぃの「人の死にざま_158_ファーブル」

ジャン・アンリ・ファーブル - あのひと検索 SPYSEE
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100分de名著 ファーブル昆虫記 第3回 14 07 16 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=u8w6bIi6LE4
Jean-Henri Casimir Fabre 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uCg2yP2fBFo
名著35 「ファーブル昆虫記」 100分 de 名著 2014年7月16日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【ゲスト】奥本大三郎埼玉大学教授)
ツチハンミョウが産む4000近くの卵のうち、無事生まれて成虫になるのは2〜3匹。
自然が昆虫に対して課す過酷なおきて。残酷にみえながら、みごとなバランスがとられている生態系の神秘。
昆虫を見つめ続けたファーブルがたどりついた「死生観」とは?
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/35_kontyuuki/
ジャン・アンリ・ファーブル ウィキペディアWikipedia)より
ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルはフランスの生物学者である。昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をしたことでも知られ、数々の曲を遺し、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても活躍している。
【進化論への批判】
ファーブルは、他方で進化論に対して非常に強く反対意見を持っていた。『昆虫記』の中で、再三そのことに触れており、特にチャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンの観念的な進化論には強い批判を記している。ファーブルはチャールズとは親交があり、チャールズも彼を「たぐいまれなる観察家」と高く評価したが、彼は進化論への批判をやめなかった。
ファーブルが行った批判のひとつに狩りバチの例がある。例えば「進化論へのお灸」と題した章がある(岩波文庫版では第6分冊)。ここで彼は進化論を現実から乖離させた概念のお遊びであると非難し、具体的な問題提起として、アナバチの例を挙げている。彼の知る何種かが近縁であることは形態等から明らかであるから、進化論的にはそれらに共通祖先があったことが想定される。しかし現実の種はそれぞれに別な固有の獲物(ある種はコオロギ、別の種はキリギリスモドキ、また別の種はカマキリ類)を狩る。では、それらの祖先はいったい何を狩っていたのか、と問い、もし祖先の中から特定の獲物を狩るものが出たのだとすれば、祖先はそれら全部を獲物の選択肢にしていたことになる、とすれば、多様な獲物を狩れる中から、限られたものしか狩れない者が出てくるのでは、明らかに進化しているものの方が不自由であり、変であると論じる。もし、祖先がある1つの獲物を狩っていたとしても、そこから現在のさまざまな種が出る間には、複数種を狩れる段階があったはずであり、同じ問題を生じる。
狩りバチはその種によって特定のイモムシなどの昆虫を捕まえ、幼虫の餌にするために神経節を針で刺して麻酔する。そのために、決まった種のイモムシを決まった場所で探し、見つけたら決まった方法で攻撃し、決まった場所を針で刺さねばならない。しかも、昆虫は学びもせず、それを生まれつき行う。もし、これらの行動のどれか一つが欠けても、この昆虫の習性は完成しないのである。だとすれば、進化する途中の狩りバチなどあり得ないのではないかというのである。
ファーブルの疑問は何よりも現実の生物の観察研究に裏打ちされていたという点で、進化論への鋭い批判であったといえる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ファーブル (1823-1915) 92歳で死亡。 (一部抜粋しています)
貧しい小学教師、中学教師として、彼の長い人生の前半を過ごしたファーブルは、48歳のとき、思い切って教師をやめ、オランジューという田舎村のあばら家に籠(こも)った。それは幼年時から1日のきれめもなく彼をとらえてはなさなかった昆虫の研究に専念するためであった。
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78年にセリニアンに移り、1879年、56歳のとき、やっと『昆虫記』第1巻を生み出した。以来この不朽の名著は31年間にわたり、10巻まで送り出される。しかし、
「セリニアンでは、村ひとたちはファーブルをよく知らなかったし、心の中ではあまり尊敬していなかった。実をいうと、ファーブルは少くとも、たいへんな変人だと思われていた。これは畑のまん中で腹ばいになったり、地面に身をかがめたりして、拡大鏡を振りながら、ハエとか、だれも興味をもたないような下等な生き物を観察しているファーブルの姿を、野原で何度も見たからである」(G・V・ルグロ『ファーブル伝』平岡昇・野沢協訳)
しかし、赤貧洗うがごとく、77歳で彼は、生活苦に苦しむ学者を援助する「科学者救済協会」に頼むことを知人に相談している。「救ってもらう権利が、私にも多少あるでしょうか。自分ではあると思っています。今の博物学者の中で、私ほど外国に名前の知られた人間はそうたくさんありません。私は本能の世界に、ほとんどだれも気がつかなかったような新しい鉱脈を開きました。(中略)それなのに、私は、まごまごすると絶望と貧困のうちにのたれ死もしかねないのです。その日その日のパンの心配で悩まされずに、力の残っているかぎり、こういう楽しい研究を続けられたら、どんなにかうれしいことでしょう」
『昆虫記』10巻が完成したのは、1910年、87歳のときであった。それ以前に死んでいたら、ファーブルはついに貧しいまま、そしてふつうの意味では無名のまま終わったところであった。
しかしこの年、はじめて「ファーブルを励ます会」が作られ、セリニアン村の喫茶店でパーティがひらかれ、出席者たちが、労苦にみちた彼の過去を慰めるスピーチをやるのを聞いて、ファーブルは泣きはじめ、それを見た人々もまたもらい泣きした。
ロマン・ロランや、ベルグソンや、メーテルリンクや、『シラノ・ド・ヴェルジュラック』を書いたエドモン・ロスタンが『昆虫記』のファンであることを改めて知られ、多くの人々は、はじめてこの野の大学者とその偉業を知った。彼の貧乏が誇張して伝えられ、フランスの隅々から為替(かわせ)が洪水のように殺到するようになった。
無欲なファーブルは、それらの金を一々送り返し、差出人が書いていない金は、セリニアンの貧しい人々に分配した。
しかし、彼の家をのぞきにやって来る見物人には困惑した。あからさまに彼を讃える言葉を聞くと、彼は黙っているか、泣き出すか、そのどちらかだった。人々はそれを見て、ファーブルがぼけていると思った。しかし、黄昏(たそがれ)を迎えて、人生の何もかも知り尽くしたファーブルにとっては、もうそんなことはどうでもよかったのだ。
次第に彼は、起きていることもつらくなった。1日の大半を眠ってすごすようになった。尿毒症のためだった。
1915年10月7日、48時間近く尿がとまってしまい、それから烈しい発作を繰り返すようになった。そして、11日に、村の司祭が来て、それまで、無神論者と見えたファーブルに、終油の秘蹟を受ける気があるか、もし受けるなら同意の手を出して下さい。と伝えたとき、瀕死のファーブルは手をさし出して息絶えた。

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特定非営利活動法人-日本アンリ・ファーブル会
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