じじぃの「人の死にざま_155_ガンジー」

マハトマ・ガンディー - あのひと検索 SPYSEE
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Mahatma Gandhi - ONE WORLD 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dk_RtLayZqY
マハトマ・ガンディー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
【人物】
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特にガンディーに倣ったと表明している指導者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアダライ・ラマ14世等がいる。
性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しては極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
マハトマの登場
第一次大戦中、インド軍には50万のインド人が働いていた。戦争が長びくとともに、民族主義者の活動が活発化した。イギリスは譲歩し、1919年のインド統治法によって選出された州議員が構成する代議制政府を導入する処置をとった。しかし、この法が施行される前にインド情勢は一変した。
新たに登場したマハトマ・ガンジーが、国民会議の指導権を握った。ガンジーは一連のハルタル(ゼネ・スト)を行うように運動をもっていったが、それによって、パンジャブで暴力事件が発生した。1919年4月、英軍はアムリトサルで行われた街頭集会の大衆に無警告で一斉射撃を浴びせた。379人のインド人が死亡し、1200人以上が負傷した。
独立への道
マハトマの取り仕切る国民会議は大衆政党となった。彼と行動をともにした指導者には、西洋化したブラーフマン(ヒンドゥーの最上位、司祭カーストの一員)であるジャワハルラル・ネールらがいた。国民会議はネールによって、社会主義的な傾向をもった、進歩的で自由主義的、民主主義的な党というイメージを与えられた。
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1947年8月、最後のインド総督、マウントバッテン卿は、最終的にインド亜大陸の新しい分離国家、インドとパキスタンに権力を移譲した。
独立当初の状況
印パ分離は大量の流血を伴った、パンジャムだけでも、少なくとも60万人が殺害された。
2つの新国家は、カシミールの帰属をめぐって争った。カシミールは、多くの藩王国と同じように、どちらの国にも加入するとの所信を表明していたのである。1966年になって、両国はソ連タシケントで合意に達し、群を停戦ラインの後方に撤退させた。パキスタンは停戦ラインの北西部を領有したが、インドは全域がインド領であるとも主張を変更しなかった。インドは1948年1月、ヒンドゥー過激派によるマハトマ・ガンジーの暗殺で再び震撼(しんかん)した。普通選挙権によって1951年に行われた最初の総選挙で、国民会議派は圧倒的多数を獲得した。
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ガンジー (1869-1948) 79歳で死亡。
第二次大戦前、断食と非服従運動によって英国に抵抗し、インドの聖雄と呼ばれたマハトマ・ガンジーは、宿願のインド独立後の1948年1月30日午後5時過ぎ、ニューデリーの「夕べの祈り」に出るべく、遠縁の2人の若い女性に両側から支えられながら、礼拝場へ歩いていった。
そのとき群衆をおしわけて1人の男が出てきて、ガンジーの前に立ち、小型自動ピストルを3発発射した。
第1弾でガンジーは立ちどまったが、なお立っていた。2発目で、白い着衣に鮮血がにじみ出て、合掌していた手が垂れ下がった。
「ヘイ、ラーマ(おお、神よ)」
と彼はつぶやいた。そのとき3発目が撃ちこまれ、ガンジーの身体は地上に崩れ落ち、眼鏡が飛び、革のサンダルがぬげた。
犯人は、インド独立後、イスラム教とヒンズー教との宥和(ゆうわ)運動に疾走していたガンジーに怒りをおぼえたヒンズー教の狂信者ゴードセーで、彼はのちに公判廷で、「撃つ前には、ほんとうにガンジーの倖せを祈り、お辞儀した」といった。かれは死刑になった。
ガンジーの葬式には5000人の兵士、3000人の警官が行進し、150万人の人々がつづき、100万人の人々が見まもった。
−−ただし、犯人の一味で弟のゴパールはいう。「ガンジーが撃たれたとき、ヘイ、ラーマといったというのは信奉者たちが作りあげた嘘だ。事実は最初の銃弾で気を失い、たんに物理的な身体の反作用で『アーア』と息がもれたにすぎない」

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【次代への名言】1月4日・マハトマ・ガンジー 2009.1.4
「わたしは、1人のものに可能なことは、すべての人に可能である、と信じて疑わない」マハトマ・ガンジー
「マハトマ」とはサンスクリット語で「偉大なる魂」、つまり聖者のこと。彼はこう呼ばれ、詩聖、タゴール(ときに批判的だったとされる)も≪彼は輝ける一人、万有の創造主、マハトマなり。≫とうたう詩をささげている。
1932年のきょう、当時62歳のガンジーは故国インドのムンバイで、イギリス当局に逮捕され、少なくとも人生で6度目の投獄に遭っている(彼はこの後も数度投獄される)。「偉大な魂」は「不屈の魂」でもあった。
ガンジーはしかし、「マハトマ」という尊称をきらい、「おじ(い)さん」という意味の親称で呼びかけられることを好んだという。その彼は言っている。「真実の探求者は、世界の人々が踏みつぶしている塵芥(ちりあくた)に踏みつぶされるほど謙虚であって初めて、真実を一瞬、見ることができる」。ここで彼のいう「真実」は、「神」と同義である。
「世界に激変が起こった。だが依然としてわたしは真実と非暴力を信じている。その前には原子爆弾など何の力ももたない」−。米軍による原爆投下に衝撃を受けながらも、こう語った彼は48年の今月30日、凶弾に倒れる。「おお神よ」が最後の言葉だった。
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/090104/asi0901040239000-n1.htm
マハトマ・ガンジー Google 画像検索
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