じじぃの「人の死にざま_134_ジャンヌ・ダルク」

ジャンヌ・ダルク - あのひと検索 SPYSEE
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ジャンヌ・ダルク 動画 YouTube
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Joan of Arc (Jeanne d'Arc) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=AjGJyV98jFw
137億年の物語 フランスを救った少女の物語 歴史の主人公【ジャンヌ・ダルク 2014年6月7日 テレビ東京
【出演者】寺脇康文相内優香宮崎美子
今回はフランスを救った悲劇の少女の物語。
田舎町に暮らしていた普通の少女の人生が大きく変わるのは17歳の時。のちに100年戦争と呼ばれるイギリスとの戦いに神のお告げがきっかけで最前線に立つことになるのです。一体、ジャンヌはどのようなお告げを聞いたのか?最後は火あぶりの刑に処せられるジャンヌの身に何が起こったのか?助手・相内の現地取材も交えて意外な事実を紐解きます。
http://www.tv-tokyo.co.jp/137/backnumber/index.html
ジャンヌ・ダルク ウィキペディアWikipedia)より
ジャンヌ・ダルクは、「オルレアンの乙女」とも呼ばれ、フランスの国民的英雄であり、カトリック教会で聖人。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。
【後世の評価】
ジャンヌ・ダルクは、フランス軍内や直接関わりのあった都市の住人には人気があったものの、フランス全土での知名度はさほど高くなかった。
ナポレオン・ボナパルトは、フランス人として初めてジャンヌ・ダルクを評価し、フランスの救世主として大々的に紹介した。ただし、これはナポレオン自身の皇帝の地位の正当化のためであった。その後フランスのナショナリズムの高まりと共に、ジャンヌについての史料の編纂・研究が行われ、多くの文学・芸術作品のモチーフとなった。最近ではフランス国民の愛国主義・国民統合のシンボルとして祭りあげる動きもある(フランスの右翼政治家ジャン=マリー・ル・ペンなど)。
一方、敗北したイングランド側では、ジャンヌに対して長く「魔女」としてのレッテルを貼り続けていた。王家の腐敗が描かれる一方で愛国的姿勢も見受けられるシェイクスピアの史劇『ヘンリー六世・第一部』(Henry VI, Part 1, 1592年)でのジャンヌの描き方はその典型例である。
しかし、近代以後には「もしイングランド百年戦争に勝利してフランスを併合していたら、イングランド=フランスに絶対王政が成立して、今日の自由主義はイギリスに存在しなかったかも知れない(シャルル7世との抗争にイングランド勢が勝利した暁には、ヘンリー6世らイングランド王族が豊かなフランス側を本拠とするため、結果的にはイングランドがフランス側に事実上併合される可能性があった)。結果的にはジャンヌはイギリスをも救った」という見方も現われるようになったという。更には、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョーン』で表わされるように、プロテスタントの殉教者として評価する者まで出た。
ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世によって列福された。次いで1920年5月16日にベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となった。
【医学的研究】
ジャンヌ・ダルクの神がかり的な言動については、発作を伴わない幻覚症状のみの側頭葉癲癇によるものだとする見解がある。癲癇によるエクスタシー体験はドストエフスキーのものが有名で、ジャンヌは過剰に道徳的・自律的だが、時として攻撃的になるという典型的な癲癇気質であったことがこの説を支持する要素となる。
また、癲癇の原因としては教会の鐘などが原因となる音楽原性、あるいは牛などから感染した結核が原因とみられ、これについては火刑で心臓・腸が焼け残ったのは結核性心膜炎や腸管結核によるもの、無月経で痩せていたのは悪液質のためなどが結核の傍証として挙げられる。
以上はジャンヌに関する資料を医学的見地から解釈した仮説であり、実際にジャンヌがこれらの症状であったかは定かではない。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
百年戦争
カペー朝は1328年に断絶、バロワ伯フィリップが新しい王朝を開いた。1337年、イングランドエドワード3世がフィリップ4世の子孫であることからフランスの王位継承権を主張し、フランドル人と同盟を結んでフランスに侵入した。フランス軍は各地で大敗を喫した。1420年にはイングランド王ヘンリー5世は、当時のフランス国王よりフランスの王位継承権を認められたが、ヘンリーは1422年にこの世を去った。ジャンヌ・ダルクに鼓舞されたフランス軍はやがて勢力を盛り返し、1453年までに、イングランドはカレーとチャンネル初頭を除くすべてのフランス領土を失った。この百年戦争の間に王権は解体し、諸候間の争いが激しく、地方では農民運動が頻発した。シャルル7世と彼の後継者ルイ11世は、諸候の権力を集収して統一を進めた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ジャンヌ・ダルク (1412-1431) 19歳で死亡。 (一部抜粋しています)
英仏百年戦争の後半、救国の神託を受けたと信じた16歳の少女ジャンヌ・ダルクは、白馬にまたがってフランス軍の陣頭に立ち、英軍を撃破し、1429年オレルアンを奪還したが、その翌年5月、戦闘中に捕虜となった。
翌1431年5月、ルアンの牢獄からひき出されたジャンヌは、サン・トウァン墓地で魔女狩り裁判にかけられた結果、5月30日朝、ルアンのヴィユ・マルシェ広場で、群衆の見物する中で火刑にかけられた。
薪や炭を積んだ高い火刑台の上に縛りあげられた彼女の胸には、
「ジャンヌこと自称『乙女』
 虚言者、毒婦
 世人を惑わせた女、巫女(みこ)
 盲信者、神をけがせし女
 驕慢の者、イエス・キリストを誤信せし者
 増上慢偶像崇拝、残虐淫乱の女
 悪魔の祈祷師、背教、離教、異端の者
 邪宗の女」
と、書いた札がさげられていた。
火刑のあと、灰の中から薔薇(ばら)色の心臓が1つ出て来て、どうしても焼けず、火刑執行人は持て余してセーヌ川に投げ込んだという伝説がある。