じじぃの「人の死にざま_131_シェイクスピア」

ウィリアム・シェイクスピア - あのひと検索 SPYSEE
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Harry Hansen meets William Shakespeare from Stratford 動画検索サイト Woopie
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ウィリアム・シェイクスピア フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ウィリアム・シェイクスピアは、イギリス(イングランド)の劇作家、詩人。ストラトフォード・アポン・エイヴォンの生れ。エリザベス朝演劇の代表的な作家で、最も優れた英文学の作家とも言われている。その卓越した人間観察眼と内面の心理描写は、今日でも最高度の文学レベルをなしている。
1585年前後にロンドンに出たといわれ、1592年には新進の劇作家として活躍。1612年ごろに引退するまでの約20年間に四大悲劇ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王をはじめ、ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『夏の夜の夢』、『ジュリアス・シーザーなど多くの傑作を残した。『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、特にソネット集』は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
イギリスの黄金時代
1558年から1603年までの45年間王位にあったエリザベス1世の時代は、冒険の時代でもあった。サー・フランシス・ドレークやサー・ジョン・ホーキンズのような提督に導かれて、人々はスペイン人との戦いや新しい国土を求めて、海上に進出していった。イギリスには、イタリアやスペインのように画家や彫刻家は出なかったが、スペンサーやシェイクスピアなどの詩人や劇作家によって、同じように永続力のある文化的ルネサンスが生まれた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
シェイクスピア (1564-1616) 52歳で死亡。 (一部抜粋しています)
シェイクスピアは48歳にして筆を絶った。
彼が晩年なんらかの病気にかかったとか、事故にあって不具廃疾になったというようなことは、同時代の記録にも、地方のいい伝えにも少しも見出されない。それどころか、集められるかぎりの資料は、すべて彼の健康と幸福をしめしている。
最初の伝記作者ロリは、1709年に書いた著書の中で、
「彼の生涯の後期は、良識ある人々がすべてそうあれかしと願うように、安楽な隠居生活、友人との談笑のうちに日を送った」と断言している。
彼は死の3年前、投資のための邸宅などを買っている。こういう大文豪もあるのである。
そして1616年4月23日、彼は妻や娘に財産分配についての詳細な遺言状を残して死んだ。死因は、当時流行した熱病によるものとも、何かの持病が急に悪化したものともいわれ、明らかでない。
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彼の遺体はストラドフォード教会内に葬られ、その墓石にはシェイクスピア自身が選んだ次の4行が刻まれている。
「よき友よ、イエスのために、ここに葬られし
 わが遺骸を掘り返すことなかれ
 この石に触れぬ者に祝福
 わが骨を動かす者に呪い荒れ」
この墓碑銘は、彼が遺言の遺産の分配で、妻には「2番目のよき寝台」しか与えていない事実とともに、彼がのちに妻が同じ場所に葬られることを防禦したしるしとも考えられ、彼が妻のアンと不和であったという説を生んでいる。

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シェイクスピアの言葉
「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」
「消えろ、消えろ、つかの間の灯火、人生は歩いている影にすぎぬ」