じじぃの「人の死にざま_722_F・ベーコン」

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Bacon vs Shakespeare 動画 YouTube
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フランシス・ベーコン
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/great/bacon.htm
フランシス・ベーコン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
フランシス・ベーコン(1561年1月22日 - 1626年4月9日)はイングランド近世(ルネサンス期)のキリスト教神学者、哲学者、法律家である
【生涯】
エリザベス1世国璽尚書を務めたニコラス・ベーコンの子。12歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。その後、ロンドンのグレイ法曹院で法律を学ぶ。18歳で父を亡くした後、23歳で国会議員となり、当時、エリザベス女王の寵臣だったエセックス伯の腹心となる。1601年にエセックス伯が反乱を起こすと法律家として告発し、処刑後は事件の全貌を明らかにする公開書の作成にあたった。
エリザベス朝期およびジェームズ1世期の初期には栄達に恵まれず、この時期の1605年に『学問の進歩』を出版する。1606年、45歳のときに14歳の少女と再婚、1607年に法務次長になったことを皮切りに順調に栄達し、1617年に国璽尚書、翌年には大法官となる。1620年、一時期だがトマス・ホッブズが彼の秘書を務めたことがある。1621年、汚職の嫌疑を受けて失脚。4日間ではあるが、ロンドン塔に閉じ込められもした。隠退生活の中、鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に悪寒にかかり、それがもとで亡くなった。
「知識は力なり」という言葉とともに知られる。独力では果たせなかったものの学問の壮大な体系化を構想していた。体系化の構想はフランス百科全書派にも引き継がれる。
なお、主な著作のノヴム・オルガヌムの影響もあり、イギリスのろう教育が始まっている。ろう学校を最初に設立した人物ではなく、ろう教育を最初に始めた人物であるとされている。
ウィリアム・シェイクスピアと同時代人であり、シェイクスピアはベーコンのペンネームだという説を唱える者もいる。
シェイクスピア別人説】
シェイクスピア別人説は、「ストラトフォード・アポン・エイヴォンウィリアム・シェイクスピアなる人物によって書かれたとされている作品は、実のところ他の作者もしくは"ウィリアム・シェイクスピア"という共有のペンネームを用いた作家集団によって書かれたものではないか」という話題を巡って18世紀以来続けられてきた学術的な議論である。
当然のことながら一般にはシェイクスピアの作品はシェイクスピア自身によって書かれたものと認められているが、懐疑派は「本当の作者」の候補としてフランシス・ベーコンやクリストファー・マーロウ、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアなどを含む多くの人物の名を挙げている。

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『賢者たちの人生論 プラトンゲーテからアインシュタインまで』 金森誠也/著 PHP文庫 2009年発行
フランシス・ベーコン (一部抜粋しています)
ある種の本は一部分を読むだけでよい。また別の本は読むべくだが熱心に読まなくてもよい。ごこ一部の本だけは全体をきめこまかく、注意深く読むべきである。
                          ――『ベーコン随想集』エヴリマンズ・ライブラリー
これはベーコンの『随想集』の中の「学問について」に出てくる読書法である。一見当たり前の見解のようだが、何しろイギリス経験論の祖といわれた哲人の見解だけに傾聴に値すると思う。
政治家としては波瀾の多い生涯を送ったベーコンだったが、哲学研究には一層熱心であった。彼は古代中世の抽象的な思弁を批判し自然の個々の具体的な事実から、一般的な法則を導く帰納法に基づく経験論を唱えた。さらにベーコンは自然から帰納された法則を応用すれば、人間には自然を支配する力が得られる。したがって学問の目的は自然を支配し、人間の物質的な生活条件を改善することにあると考えた。
ベーコンの著述の中でも重要なのは『学問の進歩』(1605)と『新機関』(ノヴム・オルガヌム)(1620)、『ニュー・アトランティス』(1627)、それに『随想集』(1597)であろう。
主著で学問の重要性を説いたベーコンは、これらの著述とくらべてずっと平易で興味深い『随想集』の中でも、「学問について」という短いエッセーを書いた。その中でとくに彼は読書法についてのべている。
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万能の神はまずはじめに庭園をつくりもうた。実際に庭園は人間の快楽の中でも最も純粋なものだ。庭園は人間の心に最大の休養を与えてくれる。
                          ――『ベーコン随想集』
これはベーコンの『随想集』の中の「庭園について」の冒頭の言葉である。ベーコンはさらにつづけて、もし庭園がなければ、豪邸も宮殿もたんなる実用本位の建造物にすぎない。文明が進めば進むほどデリケートにすべきだと説いている。
ベーコンは理論哲学者であり、彼の主著は論理につぐ論理でかためられている。しかし彼の随想集とくにこの「庭園について」は具体的であるのみならず、詩的な描写に満ちている。彼は主として王侯貴族の大邸宅に付属する庭園のあり方についてきわめてこまかくのべた。こうした詳細な造園法に準拠すればこそ、外国の宮殿付属の庭園は見事なのだろう。
パリのヴェルサイユ宮殿ポツダムのサンスーシの宮殿などはその典型であろう。自然の山水そのままの庭園を好む傾向にある日本人にとって、西洋式庭園は美しいがあまりにも幾何学的、合理的に思われるだろう。しかし、これが彼らの美学の発露なのだ。
ベーコンの発想もそのとおりである。たとえば彼は大邸宅の傍(かたわら)にある庭園を、①緑地、②ヒース(ツツジの常緑低木)密生地。③主たる庭園に三分し、それぞれの地区の造園法について詳述している。たとえば主たる庭園については、わき道の両側を果樹で飾ったりするのはよいが、庭園をせせこましくしてはならない。大空に向かって大胆に自由に広がっているようにするのが望ましい、もし散歩者が日陰を欲するならば、側面の小道にでも入ればよい。何としても主たる庭園は、1年のうち最も温暖な季節に向くようつくられているのだから、夏の暑い季節は早朝、夕方、あるいは曇りの日に庭園を訪れるべきだとベーコンはいう。
ベーコンがこのようにきめこまかく庭園について書いたのも、彼がそこを死に場所に選ぶ予感があったからかもしれない。晩年の彼は大法官まで出世したものの収賄がばれて失脚し、隠棲した。それでも彼は最後まで研究と著述に専念しつづけた。とある冬の雪の日、首をひねって殺したあとの鶏を雪の中で冷蔵して腐敗防止ができないものかと若者と共に庭に出て実験したところ風邪をひき、それが原因で病没した。亨年65であった。