じじぃの「人の死にざま_130_正岡」

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歴史秘話ヒストリア、「友よ、泣かずに笑え〜正岡子規 闘病を支えた絆(きずな)」 NHKオンデマンド 2009年12月3日
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺など名句を生み出し、近代の俳句・短歌界に革新的作風をもたらした俳人正岡子規の生涯に迫る「歴史秘話ヒストリア 友よ、泣かずに笑え〜正岡子規 闘病を支えた絆〜」が、NHKオンデマンドの見逃し番組サービスに配信されている。
21歳で当時の難病・結核を患い、35歳の若さで世をはかなくした子規。その俳号はずばり「結核」を意味している。自らの不吉をあえて名前に当てた裏には、後に文豪として名をはせる大の親友・夏目漱石との厚い友情があった。
一方「柿くへば〜」を初めとする子規の代表作の数々には、つい最近明らかになった大きな謎が隠されていた。そのカギを握っていたのは、やはり漱石との友情と、知られざる美少女の面影だった。
さらに最晩年、東京・根岸の子規庵の6畳間から出ることさえできないまで衰弱した子規のもとには、子規の性格を慕う多くの友人から、外の世界にあこがれる子規を察して様々な珍品が送られてきた。そして死の寸前まで、友人たちの励ましが絶えなかった。
これほどまで多くの友人を引き寄せた、子規の魅力に迫る。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/26.html
歴史秘話ヒストリア」------正岡子規の「柿くへば・・・」
一方、子規から学んだ夏目漱石の俳句に、
「鐘撞(つ)けば 銀杏散るなり 建長寺
があり、この句の方が先に詠まれている。
このことより、番組はざっと次のように推測していると、私は理解した。
旅費を援助してくれて、美味しい柿も沢山食べ、鐘の音の趣にも触れた。
念願の奈良の旅を無事に終えた。
世話になった漱石が、良い句を詠むようになったのは喜ばしい。
厚い友情に応え、返歌や連句の如くに詠もう。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
http://genkinagochan.blog.ocn.ne.jp/doranyanko/2009/12/post_76c9.html
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
正岡子規 (1867-1902) 36歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治21年、21歳にして最初の喀血をした子規は、30歳にして根岸の子規庵でほとんど病床をはなれ得ない人となっていた。明治34年、『墨汁一滴』『仰臥漫録』を書く一方、彼はロンドンの漱石に「僕ハ、モウダメニナッテシマッタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ」という手紙を書いた。
すでに明治29年に子規は漱石に「われほど多き野心を抱いて死ぬ者あらじ」と手紙に書いているが、そのうらみは衰えるどころか、いよいよ炎をあげていたであろう。
35年5月5日から『病床六尺』を書きはじめたが、13日には麻酔剤が利(き)かなくなり、子規は阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいうべき苦患(くげん)の中にのたうちまわった。
『病床六尺』の中で彼は書いた。
「誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか」 (すべての字に強調の傍点が付いている)
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その後少し回復したが、もう自分で筆を取ることが出来ず、口述筆記が多くなった。激痛のため身体を動かすことも出来ず、全身は脊椎(せきつい)カリエスの膿(うみ)と、おむつの便でひどい臭気を発していた。最期には、むくみが来て、痩せ細っていた足は、水死人のごとくふくれあがった。
9月18日、彼は板に貼りつけた紙に、仰向けのまま、
 糸瓜咲(へちまさい)て痰のつまり仏かな
 痰一斗(と)糸瓜の水も間に合はず
と、書いた。
9月19日未明、見舞いに来て泊まっていた高浜虚子は、子規の妹律(りつ)に起こされた。虚子は夜半過ぎまで聞こえていた子規の「うーん、うーん」といううなり声が、いつのまにか静かになっているのに気がついた。はいってみると、子規の母八重子が子規のひたいに手をあてて、「升(のぼ)さん、升さん」と、その幼名で呼んでいた。老母は眠らず、蚊帳(かや)の外からずっと見ていたのだが、あんまり子規が静かなので、手を握ってみて、いつのまにか死んでいるのに気がついたのであった。
老母は、「サア、もいっぺん、痛いというてお見」といって、涙を流した。身体を清めてやろうとすると、子規の腰から背にかけて蛆(うじ)がはいまわっていた。

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【次代への名言】9月19日・正岡子規 2009.9.19 MSN産経ニュース
「淋しさの 三羽減りけり 鴫(しぎ)の秋」正岡子規
 明治34(1901)年のきょう、子規は、門弟の長塚節から届けられた贈り物のシギ3羽をみてそう詠んだ。
 《病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。》
 初回にこう記した新聞「日本」の連載エッセー『病牀六尺』がはじまるのは翌年5月。冒頭の句を日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』につづったときすでに、結核に由来する脊椎(せきつい)カリエスが発症してから6年が過ぎようとしていた。《柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺は発症初期の句である。
 激痛ゆえ、その胸に「自殺」が去来することもあった。「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と6月20日の『病牀六尺』につづられている。
 「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」−。しかし、7月26日の『病牀六尺』に見えるこの一文が彼の到達した境地だと思う。その2日後、水曜日と日曜日を読者との面会日として開放する、と記した子規だったが、同じ年のきょう未明、逝く。数えで36歳。前日に詠んだ糸瓜(へちま)咲(さい)て 痰(たん)のつまりし 仏かな》が辞世となった。

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