じじぃの「人の死にざま_95_大久保・利」

大久保利通 - あのひと検索 SPYSEE
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プロジェクトJAPAN 「明治の政治体制を確立した 大久保 利通」 動画 NHK
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『世界に誇れる日本人』 【著】渡部昇一 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
西郷の偉大さに圧倒されなかった男
明治4年から明治6年(1871〜73)まで、岩倉具視を全権とする明治政府の外交使節が世界一周をした。これに大久保も加わっている。若くして久光に近づいてから暗殺されるまで、大久保が雄一、政治の中心から離れたときがあるとすれば、この時期だろう。しかし、欧米での見聞は大久保にとって大きな意味があった。
欧米をまわった岩倉遣外使節団の目にありありと映ったのは、日本と先進国との落差だ。大久保も岩倉も東海道を歩いたことがある。当時の東海道は日本一の街道だが、歌川広重の描く絵でもわかるように舗装されていない。また、道幅が狭く、駕籠か、歩くか、馬に乗るしかできない。ところが、アメリカに行くと、汽車が走っている。旅をするのに、歩く必要も馬に乗る必要もなかった。ヨーロッパに行ったら、広い道路が舗装されていて、夜になればガス灯がついているという具合だ。さらに工場や造船所なども見た。もはや日本が進まなければいけない道は明々白々だった。西洋文明を取り入れるしかないのである。
確かロンドンあたりでのことだったと思うが、岩倉使節団のみんなが悄然とし、「こんなに進んでいる西洋諸国に、日本はいつになったら追いつけるだろう」というような話になった。話し合った末に「だいたい50年ぐらい遅れているのではないか」という結論が出た。そして、「それなら追いつけるのではないか」と思った。できることなら、50年もかけないで、日本を先進国に追いつかせなければならない。そのためには、富国強兵を優先的に「追いつき追い越す」ことを目指す。これが岩倉使節団の結論だった。
一方、大久保が留守をしている間に、日本では征韓論が持ち上がっていた。帰国した大久保を筆頭に、岩倉使節団に加わったものは「よけいなことをやっている暇はない」と征韓論に反対した。これに対して、留守を預かっていた西郷は征韓論で勅許(ちょっきょ)まで得ているとゴネる。三条実美などは西郷が怖くてノイローゼになったといわれているが、西郷はそれほど怖い存在だった。
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その西郷を討伐する意思が本当にあったのは大久保だけだった。トップである大久保が断固闘うという姿勢をもち、西郷を怖がらない。だから、西郷を怖がる人々も闘うことができたし、薩摩出身の人たちも西郷につかなくてもいいという感じになった。また、西郷が下野(げや)して明治10年までの数年間、明治政府は大久保の下で軍隊を含め急速に体制を整備したことも大きかった。結局、大久保の頑張りと明治政府の勢いに、西郷は敗れたといえるのではないかと思う。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
大久保利通 (1830-1878) 48歳で死亡 (一部抜粋しています)
明治11年5月14日朝、福島県令山吉盛典が裏霞が関の内務卿大久保邸を訪れたとき、大久保は昂然として、「明治第一期の武力統一期はこれで終り、これからは内治興隆の10年にはいる。世の真骨頂はこの第二期にある。第三期はおはんたち後進にまかせよう」と語ったといわれる。
このあと大久保は、午前8時出勤しようとして、いつものように玄関でまだあかん坊の娘芳子を抱きあげた。彼はただ一人の女児である芳子をことさら可愛がっていたのである。ところがこの芳子は異常に泣いてしがみつき、父から離れなかった。やむなく大久保は彼女を抱いたまま馬車に乗り、玄関前をひとまわりしてからあかん坊を下ろし、馬車を出させた。(大久保利謙『孫の描いた大久保利通のプロフィル』)
その足で大久保は、過ぐる西南の役における陸海軍の将兵に手ずから勲章を与えるべく、太政官へ向かった。朝からドンヨリ曇って、いまにも雨が落ちて来そうな空模様の朝であった。
その馬車が、土しょうにはさまれた坂道となっている紀尾井町一番地にさしかかったとき、待ち受けていた6人の刺客が刀を抜いて殺到した。彼らは元加賀藩士島田一郎をはじめとする、西南の役に対する措置その他政治すべてにおいて大久保を非とする男たちであった。
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彼らはズタズタにした大久保の屍体に唾を吐きかけ、返り血に染まったままでの姿で宮内省に出頭自首し7月27日、市ヶ谷監獄でみな斬刑を受けた。
大久保は殺されたとき、前年彼が殺したともいうべき畏友西郷の手紙を懐中していたといわれる。
−−その数日前、内務少輔前島密(ひそか)は大久保を訪れ、雑談中、大久保から「いやな夢を見た。西郷と崖の上で格闘し、いっしょに崖下に落ちたのだが、おれの頭蓋骨が割れているのに、中の脳髄がピクピク動いている夢だ」という話を聞いた。この日、太政官で凶報を聞いて現場に馳せつけた前島は語る。
「・・・・ 暫(しばらく)ありて漸(ようや)く気を復し公の遺骸を点検せしに、肉飛び骨砕け又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る。 ・・・・これ果たして真耶(か)夢耶(か)」

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【幕末から学ぶ現在(いま)】(34)東大教授・山内昌之 大久保利通 2009.10.29 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091029/acd0910290807001-n1.htm
【次代への名言】8月10日・大久保利通 2009.8.10 MSN産経ニュース
 ■「凡(およ)そ国家の事は深謀遠慮自然の機に投じて図(はか)るにあらざれば成す事能(あた)はざるや必せり」大久保利通
 「大久保公は常に無口であつたが、唯(た)だ黙つて国家の事をのみ考へて居(お)られた」−。岩倉遣外使節団の一員として明治維新後、ともに欧米を訪問した久米邦武の回想だが、1830年のきょう(旧暦)、鹿児島城下に生まれた大久保利通は古い伝記によると、少年時代、相当いたずら好きで腕白だったらしい。だが、盟友、西郷隆盛との出会いと、幕末という激動期の到来が彼の運命を変える。
 冒頭の一文は、征韓論をめぐってその西郷と訣別(けつべつ)する結果にいたる「明治6(1873)年の政変」のさなかにしたためた“遺書”のなかにある。大久保の「国家三十年の計」によると、当時の日本はいまだ「創業時間」。「最も肝要」とした次の「内治と殖産期」(明治11〜20年)、さらには「後進賢者の継承期」(21〜30年)への大事な準備期間であり、隠忍自重のときだった。
 「昨夜予(よ)は西郷と断崖(だんがい)の上に搏(はく)(格)闘したり。乱撃こもごも打力を極めて相争へるが、忽(たちま)ち足失して2人相擁(あいよう)し、倶(とも)に崖下に墜落するを見る」。
 徳富蘇峰の『近世日本国民史』によると、そんな夢をみた数日後、大久保は凶刃に倒れる。西南戦争で西郷を失ってから8ヵ月後のことだった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090810/acd0908100236000-n1.htm
大久保利通 Google 検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A++%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&ei=LYmqS7aVEo2TkAXgrdmiBA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBkQsAQwAA