じじぃの「人の死にざま_83_織田・信長」

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『世界に誇れる日本人』 【著】渡部昇一 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
徹底した啓蒙君主だった信長
宗教に関して、徳川家康にせよ、豊臣秀吉にせよ、みなキリシタンを迫害した。徳川幕府にいたっては後に鎖国までやる。ところが、織田信長キリシタンに対して胸を開いたところがあった。信長は忠誠的なものが嫌いだったから、むしろ新しさに惹(ひ)かれたのだろう。
同時に、信長の発想法がきわめて合理的だったことも大きいと思う。鉄砲を本当に集団的に使うことを始めたのは、信長である。有名なのは長篠(ながしの)の戦いだが、あのような使い方をしたのは、日本が西洋よりもはるかに早い。それに比較すべき鉄砲の使い方は、西洋が100年近く遅れている。恐ろしく斬新だった。
また、信長のすごいところは、同じことをあまり繰り返さないし、むずかしいことに突きあたると、すぐに新しいやり方を考え出すことである。たとえば、桶狭間(おけはざま)の戦いは、籠城戦で戦えば必ず負けることがわかっていた。今川義元のほうは自軍の10倍ぐらいの軍勢がいる。だから、籠城戦をやらず、進軍途中を襲うという攻撃を考えた。これが成功したわけである。

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『戦国武将の死生観』 篠田達明 新潮選書 (一部抜粋しています)
光秀の謀反に遭い、すでに虎口を脱する方策なしと知った時、「是非に及ばず」といったそうだが、真偽のほどはわからない。日ごろ「常在戦場」、すなわち、どこに在っても死を不可避の宿命と自覚していた信長は「わが命運、ここに尽きにけり」とすぐさま猛火に身を投じて自害するする道に走った。かれの死生観からすればこれは当然の帰結であろう。
人は生きてきたように死ぬ。老子は「強梁(きょうりょう)なる者は、その死を得ず」といい、強い力にまかせて驕(おご)る者は自然な死に方はできない、必ず非命に倒れる、との死生観をしめした。臨済宗の禅僧で豊家の外交僧をつとめた安国寺恵瓊(えけい)も信長の仮借なき生きざまをみて、かれはいずれ非業の死を遂げるだろうと予言した。
天正元年、恵瓊は毛利氏にあてて京都の情勢を伝える手紙をしたためたのだが、その中に「(信長の代は3年や5年はもつかもしれないが、その後)高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候(高転びして仰向けにひっくりかえるだろう)}と報じた。信長の死にざまはまさしく恵瓊の予言通りになった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
織田信長 (1534-1582) 49歳で死亡
天正10年、中国陣にみずから乗り出すため、5月29日、安土から京の本能寺まで出て宿営中、6月2日、明智光秀の謀反の兵に襲撃され、信長自身弓をはなち槍をとって戦ったが、もはや天運つきたと覚悟し、侍女たちを逃がしたあと、火をかけさせて猛炎のうちに自刃した。
当時日本にいた伴天連(バテレンルイス・フロイスは報告する。
明智の兵は、内部に入って信長が手と顔を洗い終わって、手拭で清めているのを見て、その背に矢を放った。信長はこの矢を抜いて、ナギナタをとってしばらく戦ったが、やがて腕に弾創を受けて、室にはいり戸を閉じた。ある人は彼が切腹したといい、ある人は宮殿に火を放って死んだという」(『イエスズ会日本年報』)
「人間50年、化天(けてん)の中をくらぶれば夢まぼろしの如くなり」 その50年を待たず、信長数え年49歳。
−−死は大半の人にとっては挫折である。しかし、奇妙なことに、それが挫折の死であればあるほどその人生は完全型をなして見える。
信長こそその大典型。

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【次代への名言】6月2日・織田信長 2009.6.2 MSN産経ニュース
 ■「是非に及ばず。女は苦しからず、急ぎまかり出でよ」織田信長
 1582年のきょう(旧暦)未明、明智光秀率いる軍勢1万数千が、京都・二条城にほど近い本能寺を急襲した。宿泊していた織田信長につきしたがう者はわずか数十人。天下人の座を目の前にしながら、一生の不覚だった。
 信長の近臣だった太田牛一の『信長(しんちょう)公記(こうき)』は、このとき、信長が発した2つのことば(冒頭参照)を記している。
 「是非に及ばず」は、小姓の森蘭丸(らんまる)が光秀謀反を急報したさいのことば。「やむをえない」「今さらどうしようもない」が現代語訳だが、前者の意なら心当たりがあったのかもしれない。「女は−」以下は実は少し時間差がある。自ら弓や槍(やり)を取って抵抗したが、傷を負い、自害を覚悟したとき、ともに戦っていた女官に「早く立ち退いて生きながらえよ」と伝えたことばである。
 「彼(信長)が病的天才−狂気をおびた天才であったことは明らかだ。(中略)世の中がいくらかでもおちついて来れば、こんな権力者に、人はがまん出来るものではないのである」−。光秀反逆の理由について、定説はない。が、原因を信長の人格に求めた海音寺潮五郎のこの文章が、後世の「小信長」の運命をも合わせて、筆者には最も説得力がある。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090602/acd0906020310000-n1.htm