じじぃの「人の死にざま_763_細川・ガ」

細川ガラシャ - あのひと検索 SPYSEE
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ガラシャ祭2006 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=hGG5vyLZ_zo&feature=related
長岡京市細川ガラシャの愛と感動の物語
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/02010047.html
細川ガラシャ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
細川ガラシャは、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興正室キリスト教信徒(キリシタン)として有名。
子に、於長、忠隆、興秋、忠利、多羅などがいる。
明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
細川ガラシャ (1563-1600) 37歳で死亡。 (一部抜粋しています)
慶長5年、関ヶ原の役に先立ち、石田光成は、東軍に参加した諸将を牽制するために、大阪在住の諸将の家族を人質にしようと考え、その第一番に、7月16日、細川忠興の留守邸に一部隊をさしむけた。
ガラシャは人質の要求をはねのけた。
当時の婢霜女(はしためしもじょ)の覚書『秀林院(しゅうりんいん)様(ガラシャ夫人)お果てならせられ候次第の事』によれば、敵が乱入をはじめたと知って、
「(家臣の小笠原少斉)もはや成るまじくと思い、長刀(なぎなた)を持ち、お上様(ガラシャ)御座所へ参り、只今が御最期にて候由(よし) 申され候、内々仰合候事にて御座候ゆえ、与一郎様奥様(前田家から来た長男の嫁)を呼び、一所にて御果て候わんと、お部屋へ人をやられ候へば、もはや何方(いずかた)へやらんおのきなされ候につき、力なく御果て成され候。少斉、長刀にて御介錯いたし申され候事」
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戦国武将の妻としてはみごとである。
いずれにしても、信長の妹たるお市の方と、宿命の敵明智光秀の娘たるお玉と、いずれも当代の美女といわれた2人が、同じ年齢で、炎の中に非業(ひごう)の死をとげたことは一奇であるといえないこともない。

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