じじぃの「人の死にざま_82_バッハ」

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F/2002/
Bach: Ich habe genug / Nancy Argenta 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oJsS_b39YOc
憐れみたまえ我が神よ『マタイ受難曲 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UdX6cZlB7RQ
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、18世紀に活動したドイツの作曲家である。「近代音楽の父」、「音楽の父」とも称される。ベートーヴェンブラームスとともに“ドイツ三大B”と呼ばれる。
バッハ一族は音楽家の家系で、その他のバッハとの混乱を避けるためにJ.S.バッハと略記することがある。また、バッハ家でもっとも偉大であるという意味で大バッハという呼び名も古くから使われる。
管弦楽・協奏曲】
器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲管弦楽組曲、複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。特にブランデンブルク協奏曲管弦楽組曲には、G線上のアリアのもととなる楽章など、広く親しまれている作品が多い。 なお、4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲(協奏曲集『調和の霊感』Op.3の10、4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲」の編曲である。
室内楽曲】
室内楽曲作品はそれまで伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いたヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、フルートとチェンバロのためのソナタヴィオラ・ダ・ガンバチェンバロのためのソナタなどは特に重要である。なお、バッハの場合の「ソナタ」とはいわゆるバロックソナタ(大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルをとる)であり、古典派以後の「ソナタ」より簡潔な形である。
【オルガン曲】
バッハの器楽曲の中でもオルガン曲は歴史的に重要である。生前のバッハはオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していた。また聴覚に優れ、教会やホールの音響効果を精緻に判別できた。そのため、各地でオルガンが新造されたり、改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスとあわせて即興演奏をはじめとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。『故人略伝』が伝える有名な逸話として、1717年ドレスデンにおいてフランスの神童と謳われたルイ・マルシャンと対戦することになった際、マルシャンはバッハの余りに卓越した演奏に恐れを為して対戦当日に逃げ出し、結果バッハの不戦勝となったという。

                        • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
バッハ (1685-1750) 65歳で死亡。
最初の妻との間に7人の子供をもうけ、2度目の妻との間に13人の子供をもうけたヨハン・セバスチィアン・バッハは、晩年ライプチィヒ聖トーマス協会の楽長となったが、まもなく視力が衰えはじめ、ついには完全に盲目になった。
「(1750年の)あの7月の暑さが完全に彼を疲れさせ、苦痛と衰弱のために死の床からふたたび彼を起きあがれないようにしました。あの最後の日の、あの最後の時間の、どんな細かいことも私は目のあたりに思い出すことが出来ます」
と、2度目の妻マグダレーナは『夫バッハの回想』にいう。
「神は御慈悲にも少しの間、苦痛を和らげて下さいました。彼は自分が眠れるからといって、私を休ませてくれました。そのとき彼はやさしい手で私の顔を撫でながら、どんなにお前が疲れているか僕にはわかる。僕のために、いってお休み、といいました」
マグダレーナに代って婿のクリストフが看病していると、眠っていたバッハが突然起き上って、「クリストフ、紙を持っておいで、いま頭の中に音楽がなっている。それを早く書きとっておくれ」といった。クリストフが口述の通り鳥羽根ペンでそれを書きとると、バッハはやっと聞きとれるような小さな声で「それがこの世で僕の作る最後の音楽だ」といって、また眠りこんだ。
夜明けに起きてきたマグダレーナが、その楽譜を見て感動の涙をながしていると、「マグダレーナ、来ておくれ」というバッハの声を聞いた。
「私は彼と2人きりでした。彼は私のほうを眺めました。私が見えたのです! 苦痛と衰弱から落ちくぼんで収縮していた瞳孔が、もういちど開いて、苦痛の中にも光っていたのです!」
「そうするうちにも終焉の近づいたことがわかりました。『僕に音楽を少し聞かせておくれ。もうその時だからお別れに死の歌を歌っておくれ』と、彼はベッドをとりまいてひざまずいている私たちにいいました」
マグダレーナや家族は「聴け、すべての者は死すべきなりと声するを」という讃美歌を4部合唱で歌った。
「私たちが歌っている間に、セバスチィアンの顔が大変平和になってきました。1750年7月28日、火曜日の夜10時15分に逝きました」
−−実はこのマグダレーナの『回想』はマグダレーナによって書かれたものではなく、20世紀になってアメリカの女流作家エッサー・メイネルによって書かれた創作だが、それを知らずして読んだ小林秀雄が、本の中からバッハの音楽が鳴って来るような奇蹟に近い名著、と感動したという書物なので、あえて引用した。創作とはいえ、あながちまるきり虚構ではあるまい。
バッハの死因は卒中であった。同年に生まれたヘンデルからも無視され、比較的狭い周囲で、楽長としての名声を得ていたが、作曲家としては黙殺されていたバッハが大音楽家として認められるまでには、死後1世紀を要した。

                        • -

バッハの言葉
「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない」