じじぃの「人の死にざま_79_八木・秀次」

八木秀次
http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/09/099/page2.htm
八木・宇田アンテナ ウィキペディアWikipedia)』 より
八木・宇田アンテナ(やぎ・うだアンテナ、英語:Yagi-Uda Antenna)は、八木秀次宇田新太郎によって開発されたアンテナの一種である。素子の数により調整できる指向性アンテナである。一般には八木アンテナという名称で知られている。
主に、テレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用される。変わった所では、自衛隊の移動式地対空ミサイル施設のレーダーのパラボラアンテナの輻射器に八木・宇田アンテナが用いられているものもある。
【歴史】
欧米の学会や軍部では、八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船はおろか航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。しかし、日本の学界や軍部では敵を前にして電波を出すなど、暗闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然と、殆ど注目されず、その存在を知る者も殆どいなかった。 そのため、1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領した際にレーダーとその技術書を発見したが、“YAGI”という意味不明の単語が頻繁に出てきており、例えば『送信アンテナはYAGI空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる』と言った具合にこの技術書の中に至るところにあった単語"YAGI"の意味を解らず、「ヤギ」とも「ヤジ」とも読めるし理解には至らず捕虜のイギリス兵に質問したところ、「…本当に知らないのか?」と、このアンテナを発明したのが日本人だと教えられて驚嘆したと言われている。更には後にアメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾にも、最も爆発の領域の広がる場所を特定する為に、八木の技術を用いた受信機能が使われていた事が明らかとなっている。
2007年現在においてもこれほど汎用性が高く、抜群の精度を誇るアンテナは開発されていないと言われる。なお、この発明は電気技術史に残るものとして1995年IEEEマイルストーンに認定されている。本業績のマイルストーン東北大学片平キャンパス内に置かれている。

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『巨大ブラックホールの謎 宇宙最大の「時空の穴」に迫る』 本間希樹/著 ブルーバックス 2017年発行
日本が誇る発明品「八木・宇田アンテナ より
豪州シドニー郊外ドーバー・ハイツの崖の上に立てられたアンテナを見てみると、いわゆる「魚の骨」のような形のアンテナが上下に複数並んでいます。この魚の骨型のアンテナは、通称八木アンテナ、あるいは科学史的により正確には「八木・宇田アンテナ」と呼ばれるものです。名前からわかるように、このアンテナは日本人によって開発された、電波工学の歴史に残る重要な発明です。この発明者は、東北帝国大学(現東北大学)教授の八木秀次と講師の宇田新太郎の2人で、1926年の論文で2人の連名でこのアンテナの概念が発表されています。ただし、宇田新太郎はこの論文以外にも単著でこのアンテナに関連する論文を多数書いており、現在ではこのアンテナの開発で主要な役割を果たしたのは宇田であるとみなされています。にもかかわらず、このアンテナが「八木アンテナ」と呼ばれることが多いのは、アンテナに関する特許を八木が単独で取得したことや、実際に八木がアンテナを作る会社を設立してその社名が「八木アンテナ」だったことなどによります。

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『世界を変える100人の日本人!』 八木秀次(やぎひでつぐ) 世界の八木アンテナ 2009年7月10日 テレビ東京
1953年、テレビ放送が開始された。世界中の建物には、同じ形のアンテナが取り付けられた。今日でも至るところで見られる。このアンテナを発明した人物が、日本人・八木秀次である。八木はまず無線電信に興味を持ち、取り付かれてゆく。大学教授となり、学生達の実験が元で、1926年、電波の強い指向性を発見。これが八木アンテナの誕生である。これは世界でも最先端の研究だった。1928年、世界で最も権威のある弱電関係の学会で指向性アンテナの論文を発表し高く評価された。しかし、八木の研究があまりに最先端過ぎた為、日本では評価されなかった。真珠湾攻撃の際、海軍少将はレーダー研究の重要性を否定。海外で大いに認められた世紀の大発明は、日本では受け入れられなかった。1942年、シンガポールで発見されたノートに「YAGI」という文字がしきりに出てきた。日本人が無視していたアンテナ技術は英米で研究が進み、高性能レーダーとして利用されていたのだ。やがて日本は敗戦。八木は心を痛めた。GHQにより教育界からも追放された八木は身を隠すように焼け野原の薄暗い土蔵に住んだ。6年後、教育界に復帰。翌年、テレビ放送が開始された。八木は、若い科学者を育てることに情熱を注ぎ、湯川秀樹江崎玲於奈を後押しし、ノーベル賞受賞へと導いのだった。
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/0907.html
『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
八木秀次 辛辣な批判精神と教育理念で、日本を電子立国に導く
『蟻の咳払ひ』とはまた慎ましい書名があったものだ。
八木・宇田アンテナの発明者として知られる工学者・八木秀次によるこの書物、書名から想像されるかわいらしさとは裏腹に、1926-1947年にかけて激動した日本の社会や教育や科学の現状に接して「呆れ、嘆き、悲し」み、「嘆願し、風刺し、理屈を言う」批判精神と直言に満ちた随筆集なのである。
大阪帝国大学教授などを得て、戦時中には内閣技術院総裁として兵器の開発に携わった八木の経歴は、科学と戦争の抜き差しならぬ関係を考えさせるものだった。
戦後、公職追放の憂き目に遭っているが、「教育不適格者」として、戦中についてはもちろんのこと、戦後民主主義教育のあり方に対しても言うべきことを言う姿勢は崩していない。
また、発明者らしく独創性の涵養を重んじる一方で、科学者といえども社会に生きる以上は人間を知る必要があるのだから、人文学を学ぶばしとの指摘は、現在でも傾聴に値するものだ。

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八木秀次の言葉
「実験は常に真っ当な結果をもたらしているものだ」
「こんなはずはないと考えるのは、人間のほうが間違っているからだ」

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八木秀次 Google 検索
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