じじぃの「人の死にざま_71_岩倉・具視」

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週刊朝日 10/9号 (一部抜粋しています)
対立を恐れぬ姿勢 小沢幹事長に通ず 【執筆者】東京大学大学院教授 山内昌之
岩倉具視は「天皇中心の近代国家」を作るという一点において、政治的にぶれませんでした。公武合体を推進し、皇女和宮を14代将軍・徳川家茂に嫁がせたころが初期の政治活動の絶頂期でした。
ところが、政治というものは生き物です。情勢が変わって尊王攘夷の過激派が力を持ってきます。すると、岩倉はその過激派に命をつけ狙われるようになり、一度は政治の表舞台から姿を隠さざるをえなくなりました。
同じことは民主党小沢一郎幹事長にも言えます。小沢氏は「官僚の政治支配と自民党一党支配の終焉、2大政党制の確立」を目的にしていました。もちろん、途中で挫折したり不遇の時期もあったりして必ずしも順風満帆ではありませんでしたが、紆余曲折の結果、今回やっと目的を遂げたわけです。こういう意志力、さらに人心把握力や資金力などが合わさって政治家は成長するのでしょう。そのあたりが両者に相通ずる点だと思います。
対立や対決を恐れないという点でも、2人は共通しています。小沢さんも自民党を飛び出して連立政権を作り、その後新進党を旗揚げしたあたりまではよかったが、そこからは同志たちの主義主張とぶつかりました。自分の腹心だった人たちとも袂を分かつことになりましたが、目的を達成するための手段としてクールに割り切ったあたりのドライさが凄い。その結果、小党になって一時的に不遇になることもいとわなかったわけです。
岩倉も人との対立を恐れませんでした。幕末における一番のクライマックスは1868年1月の小御所会議で、その日に王政復古の大号令が出されました。すでに15代将軍の徳川慶喜大政奉還をしていましたが、岩倉はさらに辞官納地を求めました。しかも諸藩には要求せず徳川家にだけ臆面もなく要求するあたりが彼の凄みなのです。
土佐の前藩主・山内容堂などは徳川慶喜を擁護しましたが、岩倉の決意は揺るぎません。ここで中途半端に妥協したら、必ず、徳川家が近代政治の違った枠組みで復活してくると考えたからです。
維新後の征韓論から西南戦争にいたるプロセスでもそうでした。当時の西郷隆盛と正面から対決できる人物はいなかったといってよいでしょう。古くから友人だった大久保利通でさえひるまなかったとは言い切れません。しかし、欧州視察から帰国した岩倉が、近代国家設立のために征韓論は時期尚早と主張し、西郷を失脚へと追い込んだのです。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
岩倉具視 (1825-1883) 58歳で死亡
『ベルツの日記』(岩波文庫、菅沼竜太郎訳)より。
「−−それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で、一人の貴公子然たる青年にあった。あとで判ったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた。『お伺いしますが、先生、ひどい嚥下(えんげ)困難を呈する場合は、危険な徴候でしょうか?』−−『そのお方はお幾つです?』−−『52歳ですが』(実は数え年59歳)−−『それじゃあ、まあただ事ではありませんね』−−『実はわたしの父なのですが』−−青年がなお2、3の症状を述べたとき、食道癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。
それから半年あまりは、別に何事も耳にしなかった。するとある日、宮内省と文部省の役人から、支給面談したいとの知らせを受けた。2人の役人は勅命によりわたしに、次の船便で神戸へ立ち、京都で重い病気にかかっている日本の最も重要な政治家の岩倉右大臣を見舞い、出来れば東京へ連れ帰ってほしいと依頼した。すぐさまわたしは、助手を1人伴って神戸に出発したが、神戸ではもう、私を迎える手まわしがすっかり出来ていた。
公はひどく衰弱し、やっとの思いで少量の栄養をとり得るにすぎないような有様だった。6月末、わたしたちは東京に戻った。−−その時、公はわたしから包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。
『お気の毒ですが、ご容態は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は侯爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがお有りのことと存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるようなお方でないことも承知しているからです』
『ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。−−ところで、今一つあなたにお願いがある。ご存じの通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、できれば、すぐさま伊藤を召喚し、次の汽船に乗りこむように指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたさねばならないのだが、それが出来るでしょうね?』そして公は低い声でつけ加えた。『これは、決して自分一身の事柄ではないのだ』
『全力を尽くしましょう』
だが、もうそれは不可能だった。病勢悪化の兆候は見るまに増大した。公はほとんど、飢え衰えるがままに任された形だった。永い、不安のいく週間かがすぎた。その時わたしは、臨終が間近なことを知った。わたしは公に、最後の時間が迫っていることを告げた。すると公は井上参議を呼び寄せるように命じた。公は参議に、声がかれているから、側近くひざまずくように促した。その間わたしは反対側に、公から数歩はなれてうずくまり、いつでも注射のできる用意をしていた。そして終始、寸刻を死と争いながら、公は信ずるものの耳にその遺言を一語一語、ささやきつ、あえぎつ、伝えるであった。
こうして疑いもなく維新日本の最も重要な人物の1人であった岩倉公は死んだ。鋭くて線の強いその顔だちにもはっきり現われていた通り、公の全身はただこれ鉄の意志であった」
明治天皇は、7月5日、19日の両日にわたって岩倉邸に臨幸した。−−岩倉は以前から孝明天皇毒殺の風潮に悩まされていたが、天皇はいかなる心境で見舞ったのであろうか。
もっとも、岩倉が伊藤博文に何をいおうとしたか、井上薫に何をいったかは、浩瀚(こうかん)な『岩倉公実記』にも『世外井上公伝』にも書いていない。

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【次代への名言】9月14日・岩倉具視 2009.9.14
「成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈(あに)後世に恥じんや」 (岩倉具視(ともみ))
 「終日一間に籠居(ろうきょ)、(中略)うつうつとして心神穏やかならず、只々(ただただ)無念の次第遣(や)る方なし」。幕末もその終幕に入りつつあった1862年のきょう(旧暦)、岩倉具視は日記にそうつづった。
 政治の檜(ひのき)舞台にたったのは32歳と遅かったが、それから異才を発揮する。前半生の絶頂期は皇女、和宮の降嫁(14代将軍、徳川家茂との結婚)。それゆえ親幕・開国派の「姦物(かんぶつ)」とみなされた。京は狂ったような尊皇攘夷派に牛耳られつつあった。身を隠さねば、命はなかった。
 13日の夕方、僧体で自宅を忍び出た。そして「今度の事件、実に夢とも現(うつつ)とも、毛頭合点参らず」と思い惑いながら翌々日、落髪する。それからまる4年半にわたって隠れ家を転々とし、世間から忘れられ、厄介者扱いもされた。しかし、このとき、屈辱に耐えて生きながらえたことが明治の元勲・岩倉を生む。
 冒頭は67年末のクーデター「王政復古の大号令」で薄氷を渡っていたころのことば。次は維新後すぐの建言だが、後世がなお、取り組むべき課題でもある。
 「臣子の分として之を言うに憚(はばか)ると雖(いえど)も、明天子賢相(けんしょう)の出づるを待たずとも自ら国家を保持するに足るの制度を確立するに非ざれば不可なり」