じじぃの「人の死にざま_58_島津・斉彬」

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『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』 原口泉著 PHP新書 2009年発行
第1章 島津斉彬の工業化と対外貿易政策 (一部抜粋しています)
世界遺産候補にもなった島津斉彬の「集成館事業」
日本が経済危機に見まわれたのは今回だけではありません。昭和初期の世界恐慌からは甚大な影響を受け、昭和の敗戦では日本全国が焦土化した経験ももっています。いずれの場合も、日本はこれら先行き不透明な危機をたくましく乗りこえてきました。
幕末維新当時の日本はどうでしょう。先行き不透明どころか、真っ暗で何も見えないトンネルの中を必死の思いで歩んできたようなものです。それこそ、日本という国が、インドや中国のように列強の植民地になってしまうのではないかという恐怖感のなかで、国家のデザインをした人がいたからできたことでした。
時期的にも思想的にも、その国家デザインの先頭にたったのが、薩摩藩主の島津斉彬でした。
奇しくも世界的な不況の嵐が吹き荒れる現在、島津斉彬が推進した「集成館事業」関連施設が薩摩に長州も加えた「九州・山口の近代化産業遺跡群」として、世界文化遺産指定を目指して動いているところです。もしかしたら、天が斉彬の興した事業を見直せといっているのかもしれません。
世界史的に見た場合、薩摩から始まった日本の工業化が非常に短期間で実現している点や全国に広がるスタート地点だったことなど、世界遺産になる資格は十分だと思います。
「集成館事業」を一言でいえば、日本を農業社会から工業社会に変えていくという壮大な国家プロジェクトでした。工業社会の基幹産業は、製鉄業・紡績業・造船業といえますが、斉彬はそれらの生みの親なのです。
なぜ、斉彬は工業社会を目指したのでしょうか。それは、阿片戦争がきっかけでした。中国を完膚(かんぷ)なきまでにやっつけたイギリスは、つぎに日本に触手を伸ばしてくるにちがいないと斉彬は考えたのでしょう。
そして、土佐のジョン万次郎から聞いたことが、斉彬の近代工業化への思いをさらに強くしました。ジョン万次郎は漂流中アメリカ船に助けられ、10年間アメリカで過ごしたのち帰国したのですが、斉彬は彼を幕府に引き渡す前に49日間も薩摩にとどめ、西洋事情を聴取したのです。その結果、日本を強く豊かな国にしなければいけないと強く思ったにちがいありません。
斉彬はまず、蝦夷地(えぞち)の開拓を幕府に提案しました。ところが幕府は受け入れず、それこそ「笛吹けど踊らず」の状態でした。
そこで彼は、阿部正弘らの幕閣と親しくなることで幕政を動かそうとしました。大河ドラマ篤姫』を見ていた方はご存知と思いますが、英明といわれた一橋慶喜を将軍にするために、みずからの養女篤姫を実子として将軍御台所(みだいどころ)に送りこんでもいます。
当時の日本にあって、このように日本全体を見通した大名はほとんどいませんでした。斉彬の頭のなかにあるのは薩摩一国の利益ではなく、日本を植民地にしてはならないという思いだけだったのです。
いわば、「日本を洗濯する」といった坂本竜馬の先がけだったともいえます。斉彬は、幕府が動かないのであれば薩摩がやるしかないと思い定め、「集成館事業」を始めたのでしょう。
これは、薩摩の人々にとってみれば迷惑な話だったと思います。斉彬の曽祖父にあたる島津重豪蘭学好きゆえの乱費に懲(こ)りていたのです。そのために藩は疲弊(ひへい)し、財政担当家老調所広郷の思いきった施設がなければ、つぶれていたかもしれません。斉彬は、調所が命を削ってつくった蓄えによって、薩摩を工業化していったことになります。
また、交易によって富を蓄積する必要性に気づいた斉彬は、事業の一環としてガラス細工「薩摩切子」を開発し、外国への輸出を目論(もくろ)みました。日本が開国する前に、斉彬は国際社会への参入を企図(きと)していたのです。
斉彬の死後、薩英戦争を経験した薩摩は、軍事と紡績に特化したかたちで、さらに事業を進めました。イギリスの力を目のあたりに見た薩摩藩士や領民の衝撃は、それだけ大きいものがあったのでしょう。

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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)
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【次代への名言】2月2日・島津斉彬 2009.2.2 MSN産経ニュース
 ■「君たる人は愛憎なきを専要とするものなり」島津斉彬(なりあきら))
 最近は篤姫天璋院)の養父ということで知名度がぐんと上がったようだが、心服する西郷隆盛が「お天道(てんとう)さま(太陽)のような方だった」ともらした、と伝えられているように、幕末期からすでに神格化された名君だった。
 嘉永4(1851)年のきょう、島津家28代の藩主となった斉彬は、薩摩という、いち地方に産業革命を起こした。後年、産業革命の本家、大英帝国との間におきた薩英戦争で、薩摩藩が痛み分けに持ち込むことができたのは彼の遺徳の一つである。また、徳川幕府が日の丸を「国旗」としたのは斉彬の進言によった、とされる。彼は藩を超えて日本という国のことを考えていたのだ。
 冒頭のことばは『島津斉彬言行録』にみえる。人の心を動かす器量や政治に対するすぐれた考え方の片鱗(へんりん)がうかがえるが、「政治とは人の心が一つになることが肝要。国が豊かなら人の心は一つ、最高の城郭となるが、一つにならねば滅ぶ」といった発言もある。
 「十人中十人、百人中百人に好かれるような者は役に立たぬ。必ず一癖ある者の中から人選すべし」。「幕末」にたとえられることも多い現代。そんな乱世における斉彬流人材登用の秘訣(ひけつ)である。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090202/acd0902020313000-n1.htm
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