じじぃの「人の死にざま_50_コルベ」

マキシミリアノ・コルベ - あのひと検索 SPYSEE
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Maksymilian Maria Kolbe-z Auschwitz do nieba. 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9OpLDsXcdII
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
コルベ神父 (1894-1941) 47歳で死亡。
1930年(昭和5年)長崎に来て布教につとめたポーランドカトリック神父、マクシミリアン・コルベは、6年後の1936年、故国の「聖母の騎士会」修道院長になるために呼び戻されたが、3年後の1939年、ポーランドに侵攻を開始したドイツ軍のために捕えられ、アウシュヴィッツ収容所に送り込まれた。
言語に絶する強制労働の苦役の中に、コルベ神父は同囚の人々を励ましつづけたが、1941年7月末、1人の脱走囚が出たために、懲罰として何十人かのポーランド人が「飢餓刑室」に送り込まれることになった。
でたらめに選ばれたこの死刑囚たちの1人に代って、コルベ神父が進み出た。収容所長のカール・フリッチが「このポーランドの豚野郎、何のつもりだ。お前は何者だ」といった。
「私はカトリックの司祭で、あの人の代りに死にたいと思います。私はもう若くはありませんが、あの人には奥さんと子供がいます」
と、神父は答えた。しかし彼が「あの人」と叫んだのは見ず知らずの男であった。
「飢餓刑室」に入れられて、2週間の絶食後、意識を持って生きていたのはコルベ神父だけであった。収容所長はかんしゃくを起こして、神父の静脈にフェノールを注射して絶命させた。1941年8月14日午後0時50分であった。
コルベとともに来日して布教に当ったボアデスワフ・ゼブロウスキー修道士は、日本にとどまってゼノ神父と呼ばれ、孤児貧民の救済に疾走し、『ゼノ死ぬひまがない』という伝記まで書かれたが、1982年(昭和57年)4月、92歳で昇天した。
同年10月、コルベ神父はヴァチカンで聖者の列に加えられた。

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【第20回】 聖人コルベ神父の面影を訪ねて 旅する長崎学
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